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2011年7月

2011年7月31日 (日曜日)

IFRS財団評議会の戦略レビューの報告について(1.会計の目的 の1)

これから数回をかけて、IFRSが次の10年に向かおうとする方向性について、日本公認会計士協会(以下JICPAと記載)がIFRS財団に対して意見具申した内容から、IFRSの目指すところを把握する。IFRSとはいかなるものか、その性格の一端が見られると思う。

 

なぜそのようなことが言えるかというと「IFRS財団評議会」がIASBの上部組織、IASBの監督機関だからだ。そこがIFRSの今後10年の戦略について公表しJICPAに意見を求めてきた。その回答が今回の分析の対象だ。

 

回答は、IFRS財団のミッション(IFRS財団の社会的使命、役割、目的など)、IFRS財団のガバナンス、IFRS(国際財務報告基準)発行までの手続、IFRS財団の資金調達と多岐に及んでいるが、我々の観点からすると重要なのはまずはミッション、次に発行手続きであろう。

 

今回はもっとも重要な問題、会計のミッション、目的とはなにか、というテーマから始める。すでに会計学者の意見やジミーの公表文書を分析したが、みなさんはその中に何かずれたものを感じなかっただろうか。そこを明らかにしたい。(但し今回はそこまで行けない、IFRS財団評議会やJICPAの主張を記述するまでに留まる。分析は次回に譲る。)

 

【ミッション】<財務報告基準の目的>

IFRS財団としては、IASBは企業の財政状態及び業績の忠実な表現を提供する財務報告基準を開発すべきである(ので、そうなるよう監督する)としている。これは会計学の教科書の最初の数ページに書かれている非常に当たり前のことだ。これに対してJICPAは、IFRS財団の意見に賛同し、さらにその強化を求めている。この当たり前のことを強化せよと発破をかけている。なぜだろうか。具体的にはIFRS財団の政界・経済界からの独立性を高めよ、ということで論点は2つある。

 

一つは、IFRS財団はより高品質な会計基準を開発するために政府機関など幅広い関係者とより深いコミュニケーションの場を設けようとしているが、JICPAは相手のペースに巻き込まれて会計基準の目的に不純物を入れさせるな、と言っている。

 

これは主にリーマン・ショック後にヨーロッパで起こった会計基準を捻じ曲げようとする動きに対するIFRS財団側の抵抗力、独立性の問題について注意喚起したものだ。当時デリバティブなど金融商品で多額の評価損が計上されることを恐れ、サルコジ大統領などから会計基準を変更せよとのプレッシャーがあった。米国でももちろん同様の動きが起こってFASBが対応に苦慮していた。日本でも影響は小規模だが国債の評価について似た動きがあった。

 

だが、この動きについては批判があった。「政策当局は、金融機関等が多額の損失を計上すれば、それを見た投資家が株を投げ売りし、株価がさらに暴落し、社会インフラたる資本市場が崩壊しかねない。ならば会計基準を変更し、損失を出さなくすれば、株価が維持できると考えているのが、それでは投資家は保護されないし、資本市場は信頼を失う。尺度は変えるな、問題は実態にあるのだから。」というものである。

 

 

そもそも株価維持は会計の目的ではないし、実態を開示しないのはうそつきだ。そこでJICPAは会計基準はあくまで実態を忠実に開示することが主目的であり、他の公共政策目的は副次的な位置づけだ、とした。同様の会計基準をほかの政策目的に利用しようとする動きがあるようだが、それによって実態を忠実に表現しようとする会計が捻じ曲げられる恐れがある。そのリスクはIFRS財団評議会もよくわかっているはずだが、改めてそれを注意喚起したのが一つ目だ。
(ここの段落は、読者の便宜を考えてJICPAが書いてない余分なことを書いている。)

 

なお、石川教授がこれに関連して「そもそもリーマン・ショック前の公正価値評価が高過ぎた」と理論的に鋭い批判をされていたのはすでに紹介したとおりだ。

 

もう一つは、リーマン・ショック後の上記の動きは資産・負債の評価基準(公正価値)を変えろというプレッシャーだったが、JICPAは会計基準を変えるというより財務情報の透明性を高めることが他の公共政策目的にも役立つとして、そのための次の2点を求めている。

 ・会計基準の理解可能性(要は、金融商品の会計基準が難解すぎるので簡単にしてくれということ)

 ・監査可能性(会計士さえチェックできないような主観的な会計処理を許容するなということ)

 

長くなるので今日はここまでにする。一応IFRS財団評議会の主張やJICPAの回答(僕の解釈が入っている)を記載したつもりだが、分析はまだだ。次に会計学者やジミーの論点と対比したい。次回(多分明日)はそれに期待していただきたい。

 

2011年7月27日 (水曜日)

NHKスペシャル「なでしこジャパン 世界一への道」 に関連して

先ほどビデオを見たが、みなさんに報告したいことがある。それは選手が自分で考え、行動し始めたことを、なでしこのチームとしての成長ととらえ、優勝の要因としていることだ。トップダウンも大事だが日本企業はもともとボトムアップの優秀さが評価されていた。もう一度それを見直そう。原則主義のIFRSを導入するには現場力が重要だ。

(番組のあらまし)

勝手な僕の解釈で申し訳ないが、NHKは選手へのインタビューから、サッカーの技術論ではなく、チームが成長する過程で起こった個々の選手の精神的な成長に焦点を当てていると思われる。特に次の2つだ。一つはよく言われる諦めない気持ち、もう一つは優勝という目的のために選手がより積極的自主的に考え行動するようになったことである。特に後者の観点から番組内容を要約すると以下の通りであると見える。

①若い選手は澤選手にあこがれて日本代表に入ってきた。

 ・北京オリンピックでは「苦しいときは私の背中を見なさい」と澤選手が若い選手を
  引っ張っていた。

③予選リーグではまだなでしこの歯車は噛み合っていなかった。

 ・イングランド戦では疲れもあって積極性が出せず、かつ、試合中にその軌道修正が
  できないまま完敗した。

 ・準々決勝のドイツ戦の前まで練習を減らして疲れを取ること、試合では積極的な
  気持ち(パス回し)を選手側から提案し、議論し、監督も受け入れた。

④決勝のアメリカ戦では、逆に若い選手たちが澤選手を後押しした。

 ・開始20分はアメリカの勢いを止めるのに精一杯だったが、なでしこは監督からの指示を
  きっかけにキーパーの海堀選手、センターバックの岩清水選手が中心となって試合中
  に軌道修正し、ペースを引き寄せた。
 

 ・後半アメリカの戦術変更が当たり先制された。すると監督の指示を待たずに澤選手は
  自主的な判断でポジションを前目に変え、それが宮間選手の同点ゴールの背景と
  なった。

 ・延長前半に追加点を取られると川澄選手の提案によって右サイド前目のポジションを
  丸山選手と入替した。それがアメリカの猛攻を防ぎ、かつ、あのコーナーキックの背景
  となった。

 ・コーナーキックからの同点弾は宮間選手の発案に澤選手が反応し成功したもの。

 ・澤選手はPK戦を若い選手に委ねて自分は蹴らなかった。

(僕の解釈)

どうだろうか。時間の経過とともに若い選手の成長がチームの成果に結びついてきているのがお分かりになるだろうか。監督と選手、チーム内での澤選手と他の若い選手の関係が変化してきているところが面白い。その結果チーム全体が活性化している。

北京五輪後と今回のワールドカップでの宮間選手のコメントの違いが象徴的だ。北京のインタビューでは澤選手に対するあこがれが表情に現れているのだが、今回は澤選手を尊敬しつつも、チーム全員の勝利であることを強調している。

また佐々木監督も、澤選手が単独に素晴らしい選手というよりは、なでしこのなかにいてこその澤選手だ、という感じのコメントをしていた。まわりの選手の成長があってこその発言だ。

(IFRSで成功するには)

いままで何度も「より高次元の目的・目標を持つ」ことを強調してきたが、そうなることは現場の成長なくしてありえない。細かいルールで縛るのではなく、現場にもっと自由と責任を与え、成長を促すことが重要だ。現場とはいわゆる営業現場や製造現場ということだけでなく、CFOにはCFOの、経理部長には経理部長の、経理部員一人一人にも現場がある。もちろん、営業も製造も、研究開発部門にも現場がある。要は、一人一人がもっと自由と責任を持てる仕組みを構築する必要がある。

IFRSを導入するに当たっては、IASBのせいにしてはならない。IASB頼みはだめだ。原則主義のIFRSに細かいことが書いてないのは当たり前だ。趣旨を理解し、現場を理解し、判断に各自が責任を持つのが良い。だからFASBの影響を受けてIFRSが細則主義的になることを僕は危惧している。次回からはこの観点から、日本公認会計士協会が7月22日に公表した下記の文書を検討してみよう。

『IFRS財団評議員会の戦略レビューの報告「グローバル基準としてのIFRS:財団の第2の10年に向けての戦略の設定」に対する意見について』

これはいま企業会計審議会で議論されている日本のIFRS導入に関する議論を理解するうえでも重要な視点を与えてくれるだろう。なぜなら、IFRSが何を目指しているのかの一端が垣間見られるからだ。我々は、或いは企業会計審議会のメンバーはIFRSの性格を正しく理解しているだろうか。さて、お楽しみに。

2011年7月23日 (土曜日)

東日本大震災の「復旧」と東北人(番外編)

最初にお断りをするが、今回はIFRSの話ではない。ブログをさぼった一週間は、仙台方面のある町の災害ボランティア活動をしていた。僕は主に津波被害にあった家の瓦礫を取り除いたり、被災者の引っ越しの手伝いなどをしたが、その町はまだましな地域ようだ。名取や石巻などその他の被災地の状況も被災者の生活も復旧には程遠い。しかし、僕が会った人たちはみな力強くも優しく生きていた。その報告をしたい。

 東日本大震災の被害の総額についての報道をネットで拾ってみると次のようになる。(いずれも福島第一原発事故関連の損失を含まない。)

 3/25 政府試算 16兆円~25兆円

 6/24 内閣府推計 16.9兆円(直接被害のみ)

途方もない金額だ。しかしこれがすべてではない。内閣府の推計は主に社会インフラなどの固定資産の損害を対象にしており、被災者が収入を絶たれ、預金を取り崩して或いは負債を増やして生活をしている状況は考慮されていない。小学校が丸ごと流され、将来を担う人材を多数失った過疎の町はこれからどうなるであろうか。瓦礫が散乱している農地では農業ができない、それを取り除く重機も、それを操作できる人材も足りない、まだ動いていない信号が散見される街中ではまだ商業施設や飲食店が戻ってない、いや、もう戻らないかもしれない。

とりあえず、避難所、仮設住宅等々が整備され、生き残った人たちの生活は不自由なりに小康状態となったかもしれない。しかし、そこまでである。とても「復旧」などという言葉は当たらない。まだまだみんなで関心を持ち続けなければならない。

しかし、単に関心を持てばよいということでもない。実際に自分が被災しないとちゃんと理解することは難しいと思うが、被災者の感情とは繊細なもののようだ。誰も自分の弱った姿や自分の町の惨状など外部の人に見せたくない。例えば、ボランティア作業の現場を記念に写真に残しておこうとカメラや携帯を構えることはやってはいけないことの一つだ。被災者にとっては、自分の家の無残な姿を他人の写真に残される、自尊心を傷つけられることなのだから。そんな感情もあってか、他県からのボランティアを受け入れない地域もある。改めて、人の立場になって考えることの大切さを考えさせられる。

津波に流され、ほぼコンクリートの土台しか残っていないお宅の敷地にある瓦礫を数十人で肉体労働、力作業で取り除いていた時のことだ。炎天下だというのに、仮設住宅からだろうか、その家の奥さんが我々の作業をわざわざ見に来てくれた。そして少し訛りのある語り口でぼそっと言った。「昔の地図にはうちの名前がちゃんと載っていたのに、新しい地図にはもう載っていない。ここにはもう住むなってことかもしれない、住めないかもしれない」と。厳しい現実だ。

我々は、作業の最後にそのお宅の庭に小さな畑を作って向日葵の種を蒔くことになっている。阪神大震災の時のエピソードに由来する儀式だそうだ。種蒔きを終えた畑を見ながら、向日葵が咲いたらこの場所も綺麗に見えるし、生命の力強さを感じられる。そんな話をしているとその奥さんが言った。「もう一度この場所で生活してみようと思います。みなさんに勇気づけられた気がします」と。とんでもない、その言葉を聞いた我々が本当に感動した。いま蒔いたばかりの向日葵の種がもう大輪の花を咲かせたようなものだ。

今回は、まったくIFRSに関係のない話になってしまったが、もうひとつエピソードを。

ボランティアの中には、テントや自家用車に寝泊まりしている人も多い。しかし、軟弱な僕は隣町の塩釜市や多賀城市に宿をとった。その多賀城のホテルも被災していて1か月前に営業を再開したばかりだ。そしてそのあたりには、津波でおぼれて亡くなった方々がたくさん流れ着いていたらしい。斜向かいに、大工に頼んでも手が回らないからと、ご主人が自分で店を直して営業を再開した中華料理屋がある、広東麺がうまいと評判だと聞いて、夕食を食べに行った。もちろん僕はボランティアをしに来たなどというわけもないのだが、ご主人は服装や雰囲気で分かったらしい。食事が終わってレジで精算を済ませると、そのご主人は「冷えているから飲んでください」と言って、そっとリポビタンDを僕に差し出してきた。もう、この地の人々には感動させられっぱなしだった。

自分たちは被災していて親族や知人を失くし経済的にも大変で、しかも他県から来たボランティアには複雑な感情がある、しかし感謝の気持ちと思いやりを持って接してくれる。そんな素晴らしい人々がいま苦しんでいる。

2011年7月22日 (金曜日)

なでしこJAPANの勝因

僕がブログをサボっていた一週間の間に素晴らしいことが起こった。ご存じのとおり「なでしこJAPAN」がワールドカップを制覇した。その勝因を僕なりに考えてみた。それは「目的・目標」の持ち方にあったのではないだろうか。僕はサッカーは好きだが、戦術や技術論、個々の選手の活躍をここに記載するつもりではない。「意識の持ち方」が結果を左右する可能性ついて書いてみたい。

 

(フジテレビのアナウンサーへの違和感)

準決勝のスウェーデン戦はフジテレビで観戦した。フジテレビのアナウンサーは終始「メダルの確保」に意識を置いた話し方をしていて、僕はそれが嫌だった。しかし、宿泊していたホテルのテレビでは衛星放送、BS1が見られなかったので、チャンネルを変えられなかった。

 

なでしこJAPANが前回五輪で成しえなかったメダルを取ることを今回目標に掲げていたのは、僕も知っている。しかし、アナウンサーが「メダルを取るために」とか「ここで勝利すればメダルが確定する」などというたびに違和感を覚えた。選手や我々観戦者にとってメダルを取ることがそんなに大事だろうか? それより決勝戦に出場してアメリカと優勝を争う権利を得ることの方が大切なのではないだろうか。ついそう思ったのである。

 

(選手は、NHKアナウンサーは)

昨日帰宅して録画されていたBS1を見たが、試合前のインタビューで選手たちは「メダルを確保するために」とは決して言わなかった。みんな決勝へ行くんだと口をそろえていた。「メダルを確保する」などというのは3位決定戦に進んだチームの低い目標であって、準決勝を戦う選手がそんなことを口にするはずがない。NHKのアナウンサーも「決勝に進むために」とは言ったが、「メダルを確実にするために」などとは言わなかった。

 

僕は理屈をこねているつもりではない。むしろ精神論ではないが、それに近いことを書いているかもしれない。ある目標を達成するためには、その目標より大きな、より高い次元のところに視点を置き、そこから戦略を考える。するとより柔軟にアイディアが生み出せるし、変な緊張感に苛まれずリラックスしやすくなる。諦めない気持ち、粘り強く頑張るエネルギーも持ちやすくなる。

(IFRS導入・運用) 

IFRSの導入・運用も同じだと思う。東京電力の損害賠償に関する偶発債務の注記について記載した「目的に向かったか~東京電力の損害賠償引当金府警上の判断」や同じルールを採用しても運用次第で結果が変わることを記載した「日英サッカー審判の違い」でも同じことを強調したが、より大きな「目的」「目標」を強く意識することが困難に向き合う最善の方法だと思う。細則にばかり目を奪われ、本当に実現しなければならないことに意識が向けられないと、場当たり的で戦略性のない対応になってしまう。

 

ところで、アメリカとの決勝戦に勝利した後、澤選手はインタビューで次のような趣旨の発言をしたそうだ。「(私たちは)サッカーの大会というより、もう少し大きなことができるかもしれないと思っていた」 高い目線、志、目標が感じられる。

2011年7月12日 (火曜日)

監査人の経験から会計問題を考える~2/2

(減価償却)

以前は監査をやっていると会計と税務の違いに悩まされた。「会計上正しいのはわかるが、別表4で調整するのが面倒なので、このままやらせてください」などと言われて修正してもらえなかったりした。でも最近はそういうこともなくなってきた。

その代り、会計と税務の乖離は激しくなっているので、会社は別表4に多くの調整を入れなければならない。その結果、税効果会計の対象となる事象が増えた。このままコンバージェンスが進んでいけば、さらに調整項目が増加し、税効果会計が複雑となり、処理を間違えるリスクが増える。多くの企業で税務上の耐用年数ではなく自主耐用年数が採用されるとなると、もう、別表4・5の調整なんかやってられない。石川教授が指摘するように、有形固定資産も公正価値を付すことになると、もはや税制との乖離は決定的だ。税法側がもっと企業会計に歩み寄ってくるか、或いはもう決別して確定決算主義を放棄するかしてほしいと思うが、いずれの場合であっても、もっとシンプルな制度にしてもらうことが必須だと思っている。噂ではイギリスの税務上の耐用年数は1つしかないという。そういう議論を企業会計審議会にお願いしたい。

僕は、石川教授と同様にすべての企業に有形固定資産を公正価値で評価するようIFRSによって強要されることはない、そうなってほしくないと思っている。しかし、例えば歴史のある企業がしばしば多額の含み益のある資産を保有しているが、それを正当に評価するために公正価値を使う選択肢があるのはよいと思う。会社の状況にあった選択をすればよい。IFRSが用意する選択肢がうまくないのであれば、各企業の比較可能性を損なわない方法を日本として提案していくことが求められると思う。各社が正しい判断をしていけば、結果としてメーカーの生産設備など原価計算の対象になるような資産が公正価値になることはないし、賃貸物件に施した内装工事に公正価値をつけることもない、そういうところには減価償却制度が必要だろうと思う。

 

(公正価値)

期末の資産負債に着目しそれを時価評価することに、あまり抵抗はない。なぜなら、時価を考えることはその資産・負債のリスクを読み解くことだからだ。しかし、さすがに生産拠点などの有形・無形固定資産を時価にすることは別だ。そういう使用価値がメインとなる資産についてリスクを識別するには、減損会計の制度を生かせば十分だと思う。

しかし、石川教授が指摘するバブルの影響を受けた時価を貸借対照表に反映させる今の手法の問題点は、極めて深刻と言わざるを得ない。

石川教授も記載されているが、バブルかどうかを判定し、バブルであればその時点の市場価格を貸借対照表価額にしないなどという芸当が、会計にできるとは思えない。会計以前のところで解決すべき問題だ。しかし現実問題は、その会計以前のところでなかなかその解決策が見つからない。

僕が担当していた会社もリーマン・ショックの時はデリバティブで多額の損失を計上した。その原因はずっと継続的に上昇していたWTI(代表的な原油取引市場)の市場価格がその年の7月以降大幅に下落したことと円相場の上昇による。しかしその6月まで、まさか7月に相場がそんなに変動するとは僕も思っていないかった。市場のことはわからない、そう実感させられた出来事だった。ただ、原油市場に投機マネーが大量に入っていることは散々報道されていた。実需ベースの価格の試算値も報道されていた。では実需ベースの市場価格を公正価値として利用するか? いや、株式市場で実需ベースの市場価格など見たことはない。しかも、実需ベースの市場価格も試算値に過ぎない。投機マネーの規制をしてもらうしかないと思う。しかし、現実は米国のQE3が囁かれるなど、いまでもバブルがないとは言えない状況だ。

一方で「リスク情報の開示」は、「経営者の責任範囲の拡大」を要求している。即ち、マーケットが予想を裏切る動きをしたために、会社が損失を被ったのは、経営者の責任かそれとも経営者の責任範囲外のことか、ということである。経営のプロである経営者に株主が付託しているのは、どこまでの範囲なのであろうか。仮に「株主は経営者に素晴らしい製品を低コストで供給することを求めている」と仮定したとして、素晴らしい製品を作るための原材料・エネルギー価格は市場の影響を受ける。その影響をコントロールしようとデリバティブを行うと、また新たな価格変動リスクと付き合うことになる。どこに生産拠点を持つかを考えるときに、土地の値段や労働コストを考えない経営者はいない。さて、どこまでが経営者の責任、或いは、経営者が判断材料に含めるべき領域なのだろうか。

一般論としての答えは「すべて」ということになるように思う。結果的に想定外の外部環境から大きな影響を受けて会社の業績に変動を与えることはある。それは個別・具体的な事情から「確かにそれば想定外でやむを得なかった」と会社の利害関係者が冷静に判断するしかない。ただそのときに、想定外の事情の影響を含めて、情報開示がなされていないと、利害関係者は適切な判断ができない。

いずれにしてもリスク情報の開示は極めて重要だ。従来の取得原価主義でリスク情報は注記で開示するパターンと、公正価値をなるべく使用しリスク情報を注記で開示するパターンのどちらがリスク情報をうまく伝えられるか比較することが必要だ。

僕は、公正価値+注記の方を支持する。公正価値を計算する過程が、この資産或はこの事業がどのようなリスクに直面しているかを拾い上げる機会を与えるし、実際にP/LやB/Sの数字が動いているから、その読者の関心を生んで注記が注目されると思うからだ。取得原価主義で安定的な数字を出しておきながら、注記で実はこんなリスクがありますよと書いてもあまり注目度が上がらないであろう。いまの有価証券報告書の事業等のリスク情報が、会社によって蔑ろな記載で済まされているのは、その一つの例だ。

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さて、以前書いたように、しばらく新しい記事はストップします。次は再来週になると思います。ただ、もし訪問先の通信事情が良ければ、なんらかの記事を上げるかもしれません。

2011年7月11日 (月曜日)

監査人の経験から会計問題を考える~1/2

石川教授が提示した問題は大きな問題だ。僕ごときに対案や解決策が見出せるわけもない。とはいえ、会計の研究者とは違った角度の業務経験から、次の点についてそれなりの意見を2回にわたって記載したいと思う。ただ、詳細についてはIFRSの概念フレームワークやその他個別規定のところに譲ることになる。

●会計の目的-利益配分か、リスク開示か
●減価償却
●公正価値

 

(会計の目的-利益配分か、リスク開示か)

利益配分問題の具体的な対象としては、株主と債権者については配当規制が象徴であり、会社と国については課税所得の計算ということになる。まず前者については思うところを記載したい。

現在の会計は払込資本と利益剰余金の区別を重視する(「自己株式及び準備金の額の減少等に関する会計基準」第19項)が、会社法としては、必要があれば減資して剰余金を増やしたり、またそれを財源に配当することも可能だ(会社法446条、448条)。その一方で会社法は、剰余金からのれん等調整額の一部や投資有価証券や土地の評価益を配当財源から控除することを要求している(会社法446条、会社計算規則186条)。

会計は投資とそのリターンの関係を崩したくないので、投資効率を測る分子・分母たる払込資本と利益剰余金を混同させたくないが、会社法は債権者の実務的な観点である、その時点での財政状態の健全性を維持することを考えているように思う。即ち、そこに期間損益の考え方はあまり入っていない。したがって、会社法は株主と債権者の利害調整を図っているが、それは期間利益よりむしろ財政状態によっていると思う。

実際に銀行が資産査定を行う際に重視しているのは、貸付先がどの程度将来キャッシュフローを生み出せるかであり、過去の利益はそれを予想する参考値の位置づけだ。将来のキャッシュフローは事業利益から見込むだけでなく、B/S面、財政状態からも見込む。即ち、最も重要なのはこれからその会社がどうなるかであって、それをサポートするのが貸付先が直面しているリスク情報と直近の財政状態と過去の業績だ。

後者の課税所得の計算においては、会社法における債権者保護の観点の代わりに、公平な課税負担という観点が入ってくる。これについては法人税法が期間利益を課税ベースとしているため、利益額が会社と国の利害調整の対象であることに疑いはない。

では期間利益計算は会計の目的として重要ではないのか、税法にとってのみ重要か、ということになるが、そうではない。当然重要だ。過去の利益の分析なしに、今後の経営を行うことは難しい。経営者が適切な経営ができること、これこそ、投資家・株主・債権者・国のすべてが求める会計の機能だと思う。ただし、経営には利益だけでなく財政状態も将来のリスクを測るうえで重要であり、したがって投資家・株主・債権者にとっても重要だ。

そういえば、石川教授は、この著作の中で会社法の配当規制のことにはあまり触れられていなかった。もちろんこのようなことをすべてご理解されてのことだと思う。

(IFRSについて)

僕は監査現場にいて、銀行監査も経験したし、監査先の経営者と接し、経営者を通じて投資家や株主、そして税務調査の話も聞いた。税務当局は確かに過去の利益に強い関心を持つが、その他の会計の利用者は、その会社の将来に強い関心を持っている。会計はそこに貢献の場を移しつつあると感じている。IFRSはその最先端にいるイメージだ。

ただ心配されるのは、石川教授が指摘し、心配しているが、リサイクルリング禁止問題や当期純利益の廃止問題(その他の包括利益の性格づけ)だ。リサイクリングは実務上相当負担になると思う。しかし、リサイクリングをやめると「当期純利益」の純度が下がり、開示する意味がなくなる。とはいえ、外部環境の変化、特に市場、相場変動の影響と、会社の事業の成果が区分できなくてよいのだろうか、とも思う。このあたりはIASBによい代替案が出せないか、日本の貢献が問われるところだ。

2011年7月10日 (日曜日)

日本の課題、IFRSの課題(石川教授)

石川教授は日本がIFRSを取り入れていく(コンバージェンス)、或いはアドプションするにあたって、適切な期間損益計算を重視する立場から、時事ネタを使いながら具体的に多くの課題をこの本「変わる会計、変わる日本経済」に指摘している。しかし、それを大胆に要約すると、その中心は下記のようになると思う。

(会計の目的-期間損益計算 vs リスク開示)
投資家の立場(金商j法)からは、注記事項を含めたリスクの開示が重要であり、その点を最近の会計基準(やIFRS)は重視している。しかし、日本の会計はもともと適切な期間損益計算を行うことが目的であり、それゆえ、会社法や税法が、株主、債権者、国等への利益配分に会計基準を利用してきた。

IFRSはB/Sの期首と期末の資本の増減額を(包括)利益とするため、本来利益配分の財源にならないキャッシュフローの裏付けのない項目まで、即ち、資産・負債の評価損益や未実現利益までをも利益に含めてしまう。このような包括利益を調整しても利益配分機能が果たせるのか。

これは実務の問題(手間のこと)を超える大きな問題だ。損益項目に注目し、その性質を分析・解明する理論があってこそ、関係者の利害調整ができる、そうあるべきだ。期間損益計算とリスク開示を別枠にしてしまうか、両者を内包できる理論をくみ上げるか、そういう会計理論の根本的な整理と進化が求められている。会計基準は交渉や政治力で決まってしまう面があるといっても、そこでは、より基礎にさかのぼった理論や歴史の視点が重要となる。

(日本における象徴的な問題-減価償却)
減価償却することで期末の有形固定資産の簿価が決まるが、減価償却はあくまで費用配分、費用額をいくらにするかを決める手続きであって、資産評価の手続きではない。しかしもし、期首と期末の有形固定資産の評価額の差額を損益にするような会計手法が導入されると、それはもはやそれは収益と費用を対応させるための期間損益計算とは言えなくなる。しかし、IFRSは有形固定資産までをも公正価値評価させようという方向だ。そこで上記の会計理論の整理と開発が必要だし、特に税法は確定決算主義をどうするのか根本から見直す必要がある。

(IFRSが抱える根本的な問題-公正価値)
リーマン・ショックで金融商品関係の市場機能が低下し時価が下落したため、時価主義会計が過大な評価損を生むと欧米で批判を浴びた。もちろんこの批判は筋違いだ。加えて、これとは別にあまり問題にされていない大きな問題がある。それはそもそもリーマン・ショック前の時価(公正価値)が、過大評価だったのではないかということだ。市場価格があればそれを公正価値とするが、実物経済の数倍にも膨張した金融経済、信用膨張、バブルの時代の市場価格は「公正」な価格でなかっただろう。それを期末時価に使用する会計基準はいかがなものか。

みなさん、いかがだろうか。以上のようなことがメガ・バンクや生保の決算や税法改正による減価償却方法や耐用年数表の改定、三越と伊勢丹の経営統合、2009年のIFRS適用のロードマップなど色々な時事問題を通して語られている。上記はほんのエッセンス(になっていれば幸いですが)に過ぎない。

(監査人の見方)
実は、僕はかなりショックを受けた。監査実務では、どうしてもB/S項目に目が行く。まず流動性の高い項目を押さえに行き、さらに不良資産がないか注意を払い、負債の計上漏れに気遣う、そうしていくうちに相手勘定の損益の異常も発見できる。もちろん、損益項目についても分析したり、サンプルを拾って検証手続きをするのだが、それでも手がかりはB/S項目にあることが多い。しかし、確かに受験時代は会計の目的が期間損益計算にあることを学んでいた。それがいつの間にか収益の実現は売掛金の実在性や期間帰属から見ることが多かったし、契約書を見ればいつ資産の所有権が移転するかとか、未払計上、引当計上すべき負債がないか探していた。資産・負債を固めれば、結果として損益も正しくなる、そういう見方が僕の中に定着している。

そういう監査人の経験を踏まえて、次回は記載してみたい。

2011年7月 9日 (土曜日)

ジミー(金融庁)の言い分と会計学者の意見

(両氏の立場)
冒頭から僕の勘違いをみなさんにお詫びする。田中弘教授と石川純治教授は、それぞれIFRSに対して否定的な立場と肯定的な立場と予想していたのだが、読んでみると、表現は相当に違うが主張は近いところが多いのではないかと思った。両氏ともにIFRSに慎重な立場であった。

 

(石川教授の本の良さ)
人によって好みがあるかもしれないが、僕は石川教授の「変わる会計、変わる日本経済」(日本評論社)の方が好きだ。幅広く多方面から論じているし、反対・賛成の両面の説明をしてくれている。時事問題の説明も明快だ。もし読まれる方がいたら、こちらをお勧めする。田中教授の本は読み物として面白い反面、一方からの主張が強く、誤解を生むかもしれない。

(石川教授の主張)
田中教授は時価主義を真っ向から否定し取得原価主義への回帰を主張しているように思えるが、石川教授は最近の時価主義と伝統的な期間損益重視の会計理論をうまく融合させられないか、その道を模索しているように思えた。いずれにしても、資産負債中心のB/Sで損益計算をしてしまうIFRSの発想は、金融経済中心の資本主義、即ちアングロ・アメリカ(英米)の国益を担った考え方で、日本のように物づくり、実物経済中心の資本主義国は、別の道がある、或いは、アングロ・アメリカ流の考え方に修正を求める必要がある、という主張であったと思う。そして現実的な政策論に陥りやすい実学としての会計学は、いまこそ、それぞれの国や会計基準(IFRSや米GAAP、日本基準)の発展プロセスに踏み込んで本当に会計理論に立脚した研究・主張を行うべき時としている。

(ジミーの言い分)
僕はここで、会計学者の主張とジミーの発言が意外に共通していることに驚いた。先に僕は「ちょっとその前にジミー(金融庁)の言い分(6/28)」に次のように書いた。
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(自見金融担当大臣が発言した)「会計基準が単なる技術論だけでなく、国における歴史、経済文化、風土を踏まえた企業のあり方」とは、国としての個性を重視する考え方、「世界で唯一の高品質な会計基準」とは反対の考え方を取り入れたのだろうか。この点についての企業会計審議会の議論には注目が必要と思う。即ち、単に基準設定への日本の影響力を高めたいというIASBへの牽制の趣旨なのか、それを超えた意図があるのか・・・である。
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その後6/30に開催された企業会計審議会では、冒頭自見大臣が「これまで以上に幅広い議論を期待する」と述べたという。そして2009年の中間報告時に決着していた議論を蒸し返し、逆戻りさせるような発言が多く出されたという(アイティメディア株式会社のIFRSフォーラムのHP)。

さて上記の「国における歴史、経済文化、風土を踏まえた企業のあり方」は、やけに大袈裟で抽象的であるが、ふと、こういうことかと思った。
 ・国における歴史 = 近年金融を中心に経済を発展させてきた米英と、製造業中心できた日本
 ・経済文化、風土 = アングロ・サクソン流の企業も売買価値で測る金融経済に対する日本の実物経済
 ・~を踏まえた企業の在り方 = 一時点の時価を重視し短期的思考になりやすい英米と日本の長期的経営

みなさんはどう思われただろうか。石川教授のキー・ポイントは減価償却制度で、ここによく表れているという。その話はまた次回に回したい。僕の意見はその石川教授の説明の後に述べるので、多分、次々回になると思う。

2011年7月 8日 (金曜日)

最後の送別会~継続企業の前提

今日(7/7)、僕の最後の送別会があった。例の「最後の監査報告書」のクライアントが開いてくれたものだ。みなさんには報告が遅れたが、「あること」は予定通り発生し、幸いに予定した監査報告書が僕の在職期限ぎりぎりに発行できた。クライアントの関係者にもお礼を申し上げたい。

ところで、このブログは実名でなく仮名で開設しているのだが、この送別会にiPadを持ち込んで、僕が話した近況からキーワードを見つけ、このブログを検索してしまった人がいる。例の最後の監査報告書で、僕の上にサインした人、即ち、元の上司だ。その人に「やっぱり長文だね」と言われてしまった。みなさんも僕の長文に辟易しているかもしれない。申し訳ない。

実はこの上司とは不思議な因縁があり、僕の在職時代の2大エピソードの両方にかかわっている。ひとつが、クライアントの営業の最高責任者の不正をあぶりだした時、もうひとつが東証から前例がないと言われながら継続企業の前提を理由とした意見不表明の監査報告書を書いた時だ。

さて、東京電力の2011/3期の監査報告書を意見不表明にすべきだったという意見が一部にあるようだ。意見不表明とする理由が、損害賠償引当金を見積もれなかったこと、即ち、あまりにも大きい未確定事項があってそれが財務諸表に重大な影響を与えていることを理由とするのであれば理論展開として理解できる。しかし、継続企業の前提が不確かであることを理由に意見不表明とするという話であれば、この制度を誤解している。

継続企業の前提に関連する制度は、2009年の監査基準の改定によって大きく変わった。当時意見不表明が多すぎるとの批判があったこと、および、国際的な実務と調和させることが改正の理由だ。改正前は、決算日後1年間企業が存続する可能性が高いと判断できるような経営計画を、経営者が監査人に提出できなければ、重要な監査手続が実施できなかったことに準じて意見不表明とする制度だった。改正後はそのような場合の多くは継続企業の前提の注記を会社が記載していれば、「適正意見+監査報告書に注意喚起の追記をする」という制度に変わったのである。今回の東京電力がこのパターンだ。

みなさんは、GMが破たんしたときのことを覚えているだろうか。ちょうどこの監査基準改定の直前のことだったが、GMの監査人は意見不表明とせず、「適正意見+注意喚起の追記」とした。当時GMは、政府の援助がない限り資金繰りが数か月で破たんすると公言していたので、僕は当然意見不表明になるだろうと思っていた。したがって違和感を覚えた。僕の英語力が乏しいのかとも思った。しかし、改定された監査基準を読んで国際的な実務とはそういうことだったのか、と納得した。

ここに現在の開示制度の本質がある。会社が倒産寸前であったとしても、そのリスクをちゃんと開示していれば、あとは投資家が判断するということだ。逆にいればリスクの開示はしっかりやらなければならない。例えば継続企業の前提の注記が必要なのに会社が行わなかった場合は、監査人は不適正意見か限定意見を表明する。注記を軽んじてはいけない。リスク情報を開示することで、リスクを投資家や株主に移転するのである。それに見合うだけの情報開示を東京電力は求められていたということだ。

なお、「目的に向かったか・・・」などの記事で、「準拠性の枠組み」「適正表示の枠組み」という言葉を使ったが、そもそも日本の制度はどちらの考え方なのか、という疑問を持たれた方がいると思う。詳細は別に記載したいと思うが、「以前から制度の建前は適正表示の枠組み、しかし実務が追い付いているだろうか」と僕は感じている。

また長くなってしまったが、前回約束したIFRS関連本の話の前に、「目的に向かったか・・・」で書き残したことを書かせてもらった。ちなみにIFRSの継続企業の前提の制度といまの日本の制度でなにか異なる点があるかというと、僕は特に感じていない。

2011年7月 7日 (木曜日)

IFRS学習の視点

一応、僕も一通りIFRSを勉強した。監査法人時代はクライアントへIFRS導入を勧めていたので、当然自分なりの勉強はしたつもりだ。監査法人から提供されるアップデート情報もなるべく目を通すようにしていた。そんななかで僕なりのIFRS像が一応できている。

(良い点)
 ・原則主義(僕の考えでは適正表示の枠組みとも密接に関連)
 ・概念フレームワークの重視・尊重(同上)
 ・将来キャッシュフローによる資産・負債を定義、その資産・負債から導く資本および損益の定義
 ・これらから導き出される全体としてのシンプルさ

(悪い点、というか課題)
 ・金融商品関係が複雑というかオタッキー(分類・評価・減損・ヘッジなど、そのほか保険、リースも)
 ・その他の包括利益の性格付けがされてない(のに純利益を軽んじている印象)
 ・原文が英語で翻訳に時間がかかる(但し、ASBJの翻訳は日本語として分かりやすい)

僕の現時点の暫定的な評価では、IFRSの読者は最低限概念フレームワークさえ勉強すれば、財務諸表本体を直感的に読むことができる(ただ、注記を読むにはその分野の相応の知識や経験が必要)。読者にはCFOを除く経営者も含めて考えているが、これは社会全体の効率性への寄与度は大きいのではないか。しかし、作成者サイドはそうはいかない。高度な専門知識が必要となる(が、この点は、日本人は勤勉なのでなんとかなっていくのだろうと思う)。

注意を要するのは、良い点、特に原則主義の利点を十分引き出すための実務的なノウハウが、今までの日本の実務には、かなり欠けていたと思う(特に個別の状況に合わせた判断)。さらに資産・負債の定義を中心とする財務諸表像というものは、今までの損益重視の考えとはかなり異なるものだ。よって、原則主義におけるルールの運用ノウハウを整理して関係者へ知らせたり、財務諸表のイメージに関して専門家の頭を転換させたり、一般へ教育したり、といったことに国全体で取り組む必要があると思っている。(企業会計審議会の中間報告とは若干視点が違っている。)

言い訳になるが、上記は、自分で設定したとはいえタイムスケジュールがあって、それにプライベート時間をつぎ込んでやってきたものであるため、やっつけの面があることは否めない。じっくり基準書に向き合っていないのである。そこで、それをこれからみなさんと一緒にやっていきたい。したがって、このブログでは「基準にこう書いてある」ということではなく、それを概念フレームワークに照らしてどう考えるか、ということや、そういうことからくる実務上の判断のポイントの整理ができれば大成功と思っている。

IFRSの解釈はできない。でも各上場会社は、それぞれが直面する状況に合わせて多くの判断していくことになる。そのポイントの例示ぐらいは、個人的な意見として出すのはかまわないであろうと思う。というか、もっとそういうことをやっていかないと、IFRSが日本で機能しない。

僕がそんな考えを持っている人間だということを理解してもらったうえで、次回からは「取っ掛かり」で記載した会計学者の本について書いてみたいと思っている。非常に面白かった。参考になった。特に石川教授の本。

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ふぅ~、我ながら随分遠回りをしてきたような気がします。(^_^;;
ついでに申しあげると、来週11日より再来週まで、所用でなかなかこのブログにアクセスできなくなります。もし、このブログを楽しみにしてくださる方がいたら、大変申し訳ありません。

2011年7月 6日 (水曜日)

目的に向かったか~東京電力の損害賠償引当金不計上の判断

「財務諸表は一定のルールで作成されるものだし、そうであれば適正」というのは正しい。但し通常の場合に限る。問題は「想定外」なことが起こった時の対応だ。そういう意味では会計も(監査も)今回の原発と同じだ。では何が想定外だったか、原発にとっては津波だったが、会計にとっては損害賠償額の決まる仕組みである。そして、ここにくどくど説明してきた「適正表示の枠組み」がどのように関わるか、僕の考えを説明する。

東京電力は偶発債務の注記の中で債務計上しなかった理由を「…賠償額は原子力損害賠償紛争審査会が今後定める指針に基づいて算定されるなど、賠償額を合理的に見積ることができないことなど」と記載している。さらに継続企業の前提の注記では、原子力経済被害担当大臣に対し原子力損害の賠償に関する法律(以下「原賠法」と呼ぶ)第16条に基づく国の援助の枠組みの策定をお願いし、それを踏まえた原子力損害賠償支援機構法案が国会で可決されるか、さらに枠組みの詳細が今後検討されることを考えると継続企業の前提に重要な不確実性があるとしている。

なるほど大変だ、これじゃしょうがない。とても引当金を計算できるレベルじゃないな。単純に日本の会計ルールを当てはめると、合理的に金額を算定できないので引当金の要件を満たさず負債計上しない、その代り注記で説明するという判断になりそうだ、となる。ここまでは決められたルール通りに財務諸表を作成すればよいという「準拠性の枠組み」での話。問題はここからだ。

よく考えてみると、金額が分からないのは次の点なのではないだろうか。
 ① 将来のこと。例えば…
  ・どれぐらいの期間被災者が避難生活を続けるのか。その所得補償額(生活費補償額)、精神的補償額など。
  ・将来発生するセシウムなどの放射線発生物質を除去するコスト。
  ・将来発生するかもしれない放射線による健康被害の医療コスト。
 ② その他、避難している人以外の放射線被害額。例えば…
  ・自主的に避難しているとか、子供を疎開させているとか、その他の放射線被害を防止するための費用。
もしかして、冷温停止になる予定の来年初までの今避難されている方々に対する補償額は、ある程度の合理性を持って見積もれるのではないだろうか。また、原子炉を廃炉にするコストについては外国の例を参考に見積もって特別損失にしているから、上記についても同様にすれば注記にできる程度の粗々の概算ならできる項目があるかもしれない。

そもそも、原子力経済被害担当大臣に対し原賠法第16条に基づく国の援助の枠組みの策定をお願いしたとき、損害賠償額の総額を大雑把にでも見積もらなかったのだろうか、その規模感についてどういう説明をしたのだろうか。或いは国はそれを求めなかったのだろうか。

そんな疑問を持ってもう一度注記を読むと、注記には一切金額や数量などの定量的な情報がないことが分かる。もしかして、今後も上記審査会が決めた賠償額だけを未払い計上していくつもりだろうか。しかし、そもそも「原賠法」では損害賠償請求は訴訟によることが原則で、この審査会が決めるのはその前払い、仮払いにすぎないだろう。新設される予定の原子力損害賠償支援機構も、経産省の資料によると「被害者からの賠償相談窓口の設置等賠償実施の円滑化」と東京電力の資金繰りのサポート役に過ぎない。原賠法では債務は東京電力が直接全額集中して負うのである。そのうちの一部を新設される予定の機構を通して国が最小限補助する。したがって、審査会が決めた分だけ未払い計上すればよいとする判断は考えられない。

そこで冷静に別の経産省の資料(7/1付で更新されている)を見てみると、「機構が原子力事業者に資金援助を行う際、政府の特別な支援が必要な場合、原子力事業者と共に「特別事業計画」を作成し、主務大臣の認定を求める。」とされており、「特別事業計画には、原子力損害賠償額の見通し」も記載される。するとそう遠くない将来に損害賠償額の総額の見積もり額が計算されるので、そのとき引当計上するつもりではなかったかと思う。しかし、その際にその賠償額のインパクトがあまりに大きければ、2011/3期の決算はなんだったのか、ということになりかねない。株主や投資家がそれでよし、とするのだろうか。

長くなるが、これは一筋縄ではいかないのである。ご辛抱願いたい。ここから僕の結論を記載する。
現状の開示は、日本の会計基準の細部に照らして問題があるとは言えない(準拠性の枠組み)。しかし、注記で定量的な情報が全くないことから、株主や投資家は2011/3期時点に既に存在していて、そう遠くない時期に計上される損害賠償額のイメージを持てない状況だ。損害賠償額の総額を合理的に見積もれないことには疑いはないが、もっと踏み込めばその一部を引当てできたのではないか(そうすれば前出の修正後発事象の問題も起きなかったかもしれないし、少なくとも軽減された)、引当てできない分についても、被災地域の人口でもGDPの減少額の推定値でもなんでもよい、なんらかの規模感を出せる定量的な情報を注記に書けなかっただろうか。そういう努力があればこそ、株主や投資家の判断を誤らせないという大きな目標を目指していた、適正開示の枠組みだったと言えるのではないだろうか。そんなことを書けとは日本の基準には書いてないけれども。

東京電力の関係者、監査人等、当事者のみなさんは大変な思いをして会社法の計算書類、金商法の有価証券報告書を作成し、監査されたと思う。それに対し部外者が勝手なことを書いてしまい申し訳ないと思う。しかし、もしJリーグの観客が審判に精度を求めるなら、Jリーグの審判はひとつひとつのプレーに対する判定を慎重に行うことが正しいが、もしかしたらJリーグの審判は観客が切れ目のない試合運びを見たいと思っていることを知らないかもしれない。したがって、観客の側からなにが適正開示になるのかを申し立てることも意味があるのではないかと思う。お許しください。

なお、IFRSは完全に「適正開示の枠組み」の会計基準だ。日本基準は、以前記載したように「基準からの逸脱」が必要となることがあるとを明文化してないので、今回のようなケースに対応しづらい。ちょっと半端になっている。さらにIFRSは引当金も計上しやすい。
また、今年3/10に日本公認会計士協会から会長通牒なる文書が出ており、これにも触れたいと思っていたが、長くなりすぎるので割愛する。

2011年7月 4日 (月曜日)

日英サッカー審判の違い

もうひとつ、このブログらしくない記事を経由してから、東京電力の件に戻ろう。僕はこのブログの冒頭で「ルールには支配者がいるらしい」と書いた。そして、それを好ましくないと感じている。しかし、IFRSは勝手が違いそうだと思っている。そこに通ずる話だ。

以下は僕が最終出勤日の帰宅直前に監査法人でお世話になったみなさんに送った最後のメールの一部だ。
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もしお時間のある方は、このリンク先の記事をお読みください。日経電子版のスポーツ記事です。

簡潔に要約すると、サッカーの審判の日・英の違いを書いてあります。Jリーグの審判は個々のプレーを正確に判定することに重きを置き、プレミアリーグの審判は観客が試合を楽しめるよう試合が途切れなく流れることを重視します。その結果審判によるゲーム運びはだいぶ変わってきます。ルールは同じなのにです。
どちらがよいかというと、この記事も私もプレミアリーグの審判の方がよいと思っています。記事ではプレミアリーグの審判の求めるものを「美」、Jリーグを「精度」と書いていますが、私はショービジネスの目的に照らしてルールを解釈・運用するのがプレミアリーグ、個々のルール運用の正確に積み上げると結果として目的を達成できると考えているのがJリーグ、と思っています。

私が監査法人で働いている間にも、日本社会も株式市場も我々監査業界も、すべからく多くのルールで縛られるようになってきました。ルールはますます高度化し複雑化しています。蜘蛛の巣のように張り巡らされたルールに抵触しないよう気を使っていると、本来の目的へ向かう気持ちが疎かになっていたり、貴重なタイミングを逸したりすることがあります。この現象は曲がり角を迎えた日本経済、国力の衰えが目立つ日本にとって果たしてプラスなのでしょうか。

共通ルールといえば、IFRS、監査基準(監査アプローチ)、などと我々も多くに接しています。それぞれ重要な目的がありそれを達成するために設定されたルールなのですが、我々はその重要な目的を達成するためにルールを解釈し運用できているでしょうか。細部の積み上げに時間を費やしていないでしょうか。それが我々の、或いは我々のクライアントのグローバルでの競争条件を不利にしていないでしょうか。偉そうなことを書きましたが、こんな問題意識を持っています。
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多くの方から、このメールの末尾に記載されていた僕の個人メールアドレスへ返信をもらった。「何を言いたいのか良く分からなかった(が、とにかく頑張れ)」と。このブログを読まれているみなさんもそうかもしれない。

くどくなるが、僕が言いたいのは「ルールが同じなら同じ結果が保証される」わけではない、それが現実だと。だからより詳細なルールを決めようとするのがアメリカ、そして日本も然り。そうじゃなくて原則を決めて、あとは個々の状況に応じてより大きな目的を果たせるようルールを運用しようとするのがIFRSであり、そういう能力(≒常識)を社会として持っていこうよ、そして個人が責任を持ってルールを解釈しようよ、というのが僕の考えである。そうすればIFRSに限らず、社会ルールはシンプルで分かりやすく親しみやすくなる。もっと自由で効率的な社会になる。

果たしてIFRSは本当にそうなっているのか。それをこれからみなさんとこのブログで検証していきたい。まずは東京電力の件を次回に見てみよう。

2011年7月 3日 (日曜日)

7/2放送のHNKスペシャル「果てなき苦闘・・・」の石井医師

ビデオ録画してあったNHKスペシャルを見て感動した。なににかというと、石巻赤十字病院の災害対応を統括する石井医師の活躍だ。この災害対応に、監査人が今回の東京電力のような前例のない対応を迫られるケースを重ね合わせてみると、なんとも味わい深い話になる。

石巻市の事前の計画で同病院は、地域医療機関146と連携して地域の災害対応を行う拠点病院にすぎなかった。ところが146すべての医療機関が被災し機能を停止し、石巻市20万人の災害医療を一手に引き受けることとなった。それだけでも大変なことなのに、被災して機能が低下している行政を補完し、避難所の衛生・医療状況の評価、食料の調達、上水の供給など、たった3か月の間に医療機関の役割を超える対応を行ったという。下記に記憶に残った石井医師の言動を記載する。

①全国から120名の医師が応援に来るという・・・
「今この瞬間にもどこかの避難所で人が死んでると思う。それくらいの危機感がないと危ないですね。いかにこの限られた医療資源を投入するか早く決めないと。」

②石井医師の言葉ではなくナレーションだが・・・
「本来避難所の実態を調査すべき市は被災しています。医師自らが調査をするという災害医療の常識を超えた作戦を石井医師は提案したのです。300以上の避難所すべてを調査するローラー作戦が始まりました。」

③食料はあるのに避難所に届いていない。宮城県庁にて・・・
「7万人分の食糧が不足している。市に食べ物を送ったからあとはよろしくというレベルじゃない。もっと大きな力で石巻地区の食べ物の配給システムの確立をお願いしたい。」

④簡易な上水施設を避難所に設置して・・・
「これは行政の仕事だからやりませんとか、医療だからやりますとか、食料だからやりませんとか言ってる場合じゃないんです。お互い知恵を出し合ってこの国難を乗り切らなきゃいけない。」

⑤同じ災害が過去にあるわけじゃない、被害を事前に想定できるわけじゃない・・・
「そもそもマニュアル化して災害対応というのはいいのか。その場その場で考えるのであって心だと思うんですよね。」

「人の命を救う」という大きな目標を達成するために、当初計画を臨機応変に変更し(もしかしたら無視し)、事前に与えられた役割に拘らず、その状況に最も合った選択を行っていく判断力と行動力。これを監査人の立場に置き換えれば、今回の東京電力のような前例のない対応が必要なとき、淡々とルールに定められた開示を行えばよいと考えるか、より大きな目標である適正な情報開示ができるためにどうすればよいかと考えるのでは大きく結果が異なる気がする。石井医師はもちろん見事な判断で後者の対応を行った。

なぜこのブログにこの話題が? と思われた方が多いと思うが、これは監査の世界では「準拠性の枠組み」と「適正表示の枠組み」と呼ばれる大きなテーマなのである。東電が損害賠償額の見積もりを2011/3期決算に織り込まなかったことについて、一つの視点を与えてくれる。具体的にはまた後日・・・。

2011年7月 1日 (金曜日)

原発事故に関する修正後発事象~東電と監査人の判断

東京電力は、2011年3月期決算で3,176億もの経常利益を計上しながら、主に震災関連の費用によって当期純損失が12,473億と沈んだ(いずれも連結数値)。ところが昨日僕が記載したように後発事象として、損害賠償の一部が880億、ロードマップの改定に伴う負担増が380億だったことが判明しているので、実はこれらを考慮した1兆4千億円前後の当期純損失が本来の決算数字ということになる。即ち、本来修正後発事象なので2011/3期の決算をこのように修正すべきだが、ルールにより追加で判明した事象を注記することで、貸借対照表や損益計算書の修正を免れている。

さて、なぜこのようなルールがあるのだろうか。それは日本に会社法と金融商品取引法の2つの開示制度があることに起因する。企業は会社法に基づき株主総会のために、決算書が添付された招集通知を6月の上旬には株主に送付してしまう。そしてその株主総会が終わると(終わらなくてもよいが終わってからの会社が多い)、上場会社は金融証券取引法に基づいて有価証券報告書を金融庁へ提出し、金融庁は速やかに一般に開示する。

企業にしてみれば招集通知として多数の株主に送付してしまったものを訂正するのは、実務上手間もコストも膨大なので、会社法の監査報告書日以降に発生した修正後発事象を決算に関係させたくない。しかし、株主も投資家も重要なことが起こっているのであれば決算に反映させてほしいと考える。そこで間を取って貸借対照表や損益計算書の本表には計上しないが、注記で開示するというのがこのルールの趣旨である。

このルールを僕流に解釈すると、「手間をかけても伝えるべき重要な事実であれば、(ルールに書いてなくても)貸借対照表や損益計算書の修正を行う(株主総会では報告事項ではなく決議事項として扱う)」ということになる。今回は880億と380億の合わせて1,260億の損失が、手間をかけても伝えるべき重要な事実かどうかが問題となる。おそらく東電も監査人もこの重要性に悩んだに違いない。最終的に全体が1兆円を超える大赤字なのだから、この程度の追加の損失が計上されていなくても大勢に影響を与えまいと考えて注記で開示することを選択した、というのが僕の(希望的な)観測である。ルール通りにすればよいと単純に割り切って注記で済ませたわけではないだろうと思っている。ただ、ルールになくても、はっきり本来の当期純損失の金額まで注記した方がよかったと思う。それが目的・趣旨に合っている。

ところでIFRSは日本特有のこのような二重の開示制度を想定していない。そこでASBJではコンバージェンスの一環として今回のような修正後発事象についても、有価証券報告書の貸借対照表、損益計算書を修正し計上するという方向で日本基準の見直しが行われているやに聞く。しかしどうだろうか。それがIFRSの趣旨に近づくことになるのだろうか。IFRSが想定していないことは、運用でIFRSの目的に照らして上記の東電のように判断すればよく、日本の基準にIFRSにない細則を追加することは避けた方がよいのではないだろうか。今の時点ではそう思っている。また各社が、有価証券報告書の提出時期を早めてこのような事象が起こりにくくするといった努力も重要である。

ところで、継続企業の前提の注記や偶発債務の注記に記載されている通り、東電は(原子力損害賠償紛争審査会が今後決定する指針に基づき算定される)損害賠償額をこの決算に計上しなかった。しかし、もし見積もれば巨額になるであろう損害賠償額を、最初から2011/3期決算に織り込まなくてよかったのだろうか。実はこちらの方がはるかに大きな話である。

これもまた一筋縄ではいかない。続きはまた後日。

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