IFRS開発に日本は参加するのか、しないのか(1)~人の性
僕は最近、特に会計ビックバン以降の会計基準は財務諸表を「経営者によるレポート」にすることを目指していると思っている。単純に個々の取引を集計しただけでは企業の実態を表わせないので経営者による説明を加えて財務諸表(注記を含む)を作成しているということだ。その説明の中核をなすものが「見積もり」だ。
もちろん実務としては経理部等が見積もり作業やその会計処理、注記案の作成を行うが、経営者がその内容を理解し、判断し、経営者の感覚に合った処理や表現に承認を与えて公表する。経営者が主体的に外部利害関係者に「我社の現状はこうです」と説明する資料が財務諸表だからだ。
しかし残念なことに過去正直でない経営者、悪いところを見て見ぬふりをして説明する経営者、悪いことを知らずに説明してしまった経営者がいた。おかげで多くの投資家・株主・取引先など債権者、そして従業員も損失を被り、あるときには資本市場の信頼性を傷付ける事態が生じた。それを防ごうとしてルール、新しい会計基準が設けられてきた。
見積もりは難しい判断を要する困難な作業だ。でもそれは当たり前で、企業経営が非常に高度な判断を要する難しい仕事であることの裏返しだ。その困難の要素は2つある。一つは将来予測の難しさ、もう一つは見たいものだけ見たがる、悪い知らせを遠ざける人の性を超えることの難しさだ。前者はまさに経営者の能力によって対処される問題で、会計基準は基本的には後者の困難を克服する道具だ。
しかし、社内の仕組みに後者の問題があって、経営者に実態が報告されていないと前者の経営能力は正常に発揮できない。経営者はそれを理解して、社内の仕組みを整備し運用する。それが内部統制だ。会計基準も内部統制も経営者が自分の実力を発揮し、前者の問題へ対処するための道具立てということになる。それゆえ重要だ。(が、道具に過ぎないということへの理解も大切だ。この点についてはまた後日。)
さて、この後者「人の性」の問題は人類共通のものらしく、会計基準をグローバルで開発しようということになってきている。人類共通ということは、人類が40億年の生存競争を生き抜くために(過度な)楽観や怠惰な部分が必要不可欠だったということだろう。それだけに根深い。語感から受ける印象より遙かに克服困難な問題なのだろうと思う。それを日本国内だけで解決できるだろうか。東日本大震災への対応でも日本人の規律・礼節を重んじる心は証明された。他の国とは違うかもしれない。それでも粉飾決算は起こっているし、見通しの甘い判断も行われている。他人ごとではない、僕自身もそうだ。
自分自身で解決できない問題は他人の助けを借りる、その代り恩を返す。そしてみんなで協力していく。それが自然の流れだと思う。日本はIFRS開発に参加するのだろうか。この点についてまず結論を出してほしい。会社法・税法とか、中小企業会計基準とか、連結先行云々は、まずそれを決めてから考えれば道はあると思っている。
ちなみに、最近の会計基準を「時価主義」と表現することがあるが、それは一面に過ぎないと思う(確かに非常に大きな一面ではあるが)。より本質的は上述したとおり「会社の状況を適切に説明するレポートを作る」ということだ。それに真剣に取り組んでみると、過去いくらで買ったという情報より今の価値を表示することが適切というごくシンプルな結論に行きつく。だがそのためには見積もりが必要になる。次回は良い見積もりと悪い見積もりについて。
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