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2012年9月

2012年9月28日 (金曜日)

【製造業】放置志向でない取得原価主義

2012/09/28

前回は、トライアングル体制時代の取得原価主義が、長期志向というより放置志向だという話を書いたつもりだ。放置すれば問題はより大きな問題へ変容していくし、その結果会社が破綻することもある。したがって、その時代の取得原価主義に戻れ、という主張には賛成できない。では、どういう取得原価主義なら賛成できるのか。

 

その前に、そもそも取得原価主義が何かについておさらいをし、そして、日本の会計基準の変遷もざっと振り返ろう。まずは取得原価主義についてWikipediaから引用すると、次のように定義されている。

 

取得原価主義(しゅとくげんかしゅぎ、acquisition cost basis, historical cost convention)とは、資産の評価基準として、資産を取得した原価を基準として採用する会計手法である。

 

資産は、購入に要した支出額で帳簿に記帳される。資産を使用すればその状況に応じて費用化される。例えば、棚卸資産であれば払出数量に応じて、固定資産であれば減価償却によって費用化される。このため、資産の評価額が取得価額を上回ることがないというのが取得原価主義の特徴だ。即ち、評価益が計上されることはない。

 

もう一つ大きな特徴がある。それは、具体的に発生した取引を記録することだ。具体的に発生した取引だから、それは過去の取引だ。過去の取引記録が累積・集計されて、貸借対照表や損益計算書になっていく。例外は減価償却で、これは、具体的な取引はないが、固定資産等が一定のパターンで減価すると仮定して、各会計年度に毎期規則的に費用配分する。

 

「取得原価主義は、評価益は計上されないし減価償却も行うので、保守的な会計だ」と思われるかもしれないが、前回も記載した通り、評価損が計上されにくいので含み損が発生し、温存される。したがって、決して保守的な会計手法ではない。例外的に低価法が有価証券や棚卸資産に認められていたり、著しく価値が下落した場合に評価損が必要とされていたが、トライアングル体制が生きていた会計ビックバン以前は、低価法は会計方針による選択適用が認められていたに過ぎず、採用していない企業が多かったし、著しく価値が下落した場合の評価損も、何を持って著しい価値の下落とするかが明確でなかったために、評価損を計上せずに含み損を維持することが可能だった。「取得原価主義なんだから、原価のままでいい」というのが大原則だったわけだ。税法で認められない損を出しても意味がない、なんて言い方をされることもあった。だが、これでは経済実態を見る目が甘くなる。これが「甘い会計基準」の本質だ。

 

これに対して、会計ビックバンによって、金融商品会計が導入されると、金融商品について時価のあるものは評価益も計上されるようになったが、評価損も計上されるようになった。時価のないものについても、著しく価値が下落した場合が明確になり、やはり評価損が計上されやすくなった。また減損会計では、固定資産の価値の下落、即ち、「収益性の低下により価値が下落した場合」が明確になったため、やはり減損損失という一種の評価損が計上されるようになった。

 

みなさんの中には、金融商品会計基準が、時価のあるものについて評価益の計上をやめれば一番保守的になると思われる方がいるかもしれない。しかし、現実には損失ばかり計上していたら、逆にバランスを欠き、企業の財務成績を適切に表さなくなる。だから、税効果会計も合わせて導入され、一定の場合には、損失を相殺する効果のある繰延税金資産の計上が認められるようになった。実際に、税効果会計が導入されたことで胸をなでおろした企業も多かったのではないだろうか。例えば、金融機関はバブル時代の不良債権に対して多額の貸倒引当金を積み増すことが多かったから、税効果会計には助けられたに違いない。メーカーだって同じだ。全体として利益を出せる能力があるのに、一部の事業が不調なために多額の減損の計上を強いられて、もし、税効果会計が導入されてなければ一挙に赤字になるような会社も多かったと思う。

 

ということで、トライアングル体制の頃より、ビックバン以降の方が保守的な会計になっていることがご理解いただけたと思う。だが、もう一つ重要な変化を挙げておきたい。ここで大きなパラダイムシフトが起こっていた。取得原価主義なのに、具体的な取引事実のない「資産価値の下落」を、また、過去ではなく「将来」を見込んで見積り、記帳することになったことだ。即ち、上述した2つ目の特徴が失われた。

 

トライアングル体制の頃は、すでに発生した取引を記帳し、集積していけば財務諸表ができた。ビックバン以降は、それに加えて、現金以外の各資産について、評価損を計上する余地がないか、即ち、含み損が発生していないか、金融商品会計基準や減損会計基準などを使って棚卸をするようになったわけだ。そしてその評価損を計上するために行われる会計上の見積りとは、現時点で判明している将来のリスクを決算に織り込むという作業に他ならない。それが将来キャッシュフローの見積りだ。

 

 

さあ、ここで冒頭の問いに戻ろう。放置志向でない取得原価主義とはどういうものか。

 

それはやはり、将来のリスクを見せる機能を会計が持つことだ。そういう取得原価主義があるなら賛成できる。会計は、企業の実態を経営者に見せるものだから、取得原価主義であっても将来のリスクを経営者に見せられるものでなければならない。そうして経営上のアクションに結び付けなければならない。それなら放置を避けられる。経営者に見せようとすると、それは将来のことだから、やはり見積らねばならない。すると取得原価主義であっても「見積もり」はもはや避けられないというのが、僕の意見だ。

 

なんとそうするとIFRSになってしまう。上述のとおり、現行の日本基準もそうなっているが、経営と融合させやすいのは原則主義で骨太のIFRSの方だと思っている。だが、オックスフォード・レポートでは、IFRSは公正価値会計で、見積りが恣意的になるので、保守的でないと批判されていた。IFRSが公正価値会計という批判は、「公正価値会計の部分もある」ということに過ぎないのは、上記の、会計基準の国際的調和やコンバージェンスという旗の下に行われた日本の会計ビックバンの状況を見ても分かっていただけると思う。細かく見ると「時価」は色々なところに出てくるが、引いて全体を見てみると、上記のとおり保守的だし、取得原価主義がベースだ。そして、見積りが恣意的になるという批判については、次回に検討してみたい。僕はこれが「長期志向の経営」に関係してくると思っている。

2012年9月25日 (火曜日)

【製造業】トライアングル体制のころの取得原価主義

2012/09/25

先週末の深夜に放送された、NHKBS1スペシャル「1972年“北京の五日間”こうして中国は日本と握手した」は、少々視聴しにくい時間帯だったので、ご覧になった方は意外と少ないかもしれない。しかし、非常に見ごたえのある番組だった。

 

番組は、日中国交正常化宣言に至る外交交渉の舞台裏を辿ることで、日本側の田中角栄首相、大平正芳外相と、中国側の毛沢東主席、周恩来首相などの両国指導者たちが、意味は違えどお互いに日清戦争から第二次世界大戦という重い負債を背負いながら、なぜ「小異を残して大同につく」ことができたかを浮き上がらせた。当時中国を取巻く絶望的な国際情勢が日中国交正常化を後押ししたといっても、文化大革命の失敗、江青女史ら4人組の存在、そして旧日本軍に強烈な恨みを持つ国民感情など、中国側指導者が乗り越えなければならない壁は非常に高かった。

 

だが、僕は中国側だけでなく、田中角栄氏、大平正芳氏ら日本側にも、あの第二次世界大戦を繰返してはならない、そのために両国の戦争状態を早く終結させ、友好関係を発展させていかなければならない、それが日本の平和と繁栄の基礎になるんだという強い意志を感じた。日本側にも同様に壁があったのだ。

 

双方が壁を乗り越えられて良かった。だが、問題はそのあとだ。両国とも当時の指導者の意思を引継げていない。(この番組があと15年早く放送されていたら、政治家も国民も違う対応ができたかもしれない。)

 

9/11の記事では、当時の政治家が尖閣諸島問題を先送りしたことについて軽く扱ってしまったことを、今は後悔している。しかし、先送りが智恵となるには、その問題を解決するための戦略がなければならない、先送りするだけなら放置になってしまい問題を悪化させるだけ、という趣旨については、撤回するどころか、さらに強調したいぐらいだ。

 

 

例によって前置きが長くて申し訳ないが、漸く本題に入ることにする。今回は、取得原価主義について、理論的な検討というよりは、僕の経験を記載したい。そうすれば、取得原価主義に戻れとか、トライアングル体制を復活させよ、などと唱える人達に、僕がそれに賛成できない理由を理解していただけると思う(読まれないか?)。即ち、取得原価主義が問題先送りに繋がってしまい、結局誰のためにもならないことを示したい(失敗を隠したい人以外)。

 

 

僕のスタッフ時代(1990年代前半)、僕の所属していた監査法人では、分厚い「言訳の調書」が毎期繰越されていく会社(被監査会社)が時々あった。もちろん、スタッフの僕が監査法人の全関与先の調書を閲覧するわけはない。自分が関わったほんの一部を見ていたに過ぎない。しかし、ほんの一部なのにそういう監査調書にいくつか出会っていた。その「言訳の調書」とは、実態論からいえば、資産性がないとか簿価が高過ぎるのだが、当時の(緩い?)会計基準に照らすと「絶対に損失計上せよ」とはいえない、会社も嫌だと言って損失計上しない、大雑把に言えばそんな内容のものだった。それがスッと消えていったのが、金融商品会計や減損会計などでトライアングル体制が崩壊した会計ビックバン(2000年以降)の頃からだ。

 

今もそうかもしれないが、当時僕のいた監査法人のスタッフの多くは、時間的にも精神的にも余裕もない毎日を過ごしていた。それに、そういう調書があることを教えられもしなかったから、見ない人が多かったと思う。しかし僕は、そういう調書があることに気付いてしまい、面白がって勝手に読んでいた。読み始めると止まらない。1時間、2時間と貴重な時間を費やしてしまうから、増々自分の首を絞めた。今では情報管理の観点から考えられないが、当時は会社の資料や監査調書を家に持ち帰って、睡眠時間を削って補った。

 

当時の上司たちの中には、スタッフごときにその監査業務の恥部を見られるのは嫌だと、いい顔をしない人もいたようだ(間接的に耳に入ってきた)が、面と向かって怒る人はいなかった。だから、できる限りそういう調書を読むようにしていた。(今なら、もし今でもそういうものがあるなら、監査チームのキックオフミーティングなどで、上司や先輩から詳しく説明され、監査でどう検証するかディスカッションするはずだ。)

 

経験年数が上がり、主査(現場管理者)になっていく過程では、そういう調書を読む機会を与えられる。だが、その時点では、主査とパートナー、会社の方などの会話や態度が横目に入ってくるから、何かあるなと気付いていることが多く、それなりに心の準備もできる。が、いよいよ、それと正式に対面すると、みんなそれなりにショックを受けたのではないだろうか。

 

全部の会社にあるわけではないし、会社の屋台骨を揺るがすようなものは滅多にない。しかし、中には酷いものもあった。実際、僕はそれで主査になるのを拒んだことがある。

 

僕は、その会社の監査チームの主要メンバーではなく、人数の足りない時のお助けマンだったが、会社の女子社員との飲み会には欠かさず参加していた。しかし、それが主要メンバーであるとの誤解を招いたようで、あいつを次期主査にという話になったようだ。

 

しかし、そんなお助けマンでも、時々、ただならぬ雰囲気を感じたし、監査チームの上の方からコソコソ漏れてくる話も耳をダンボにして聴いていた。時にはこっそり独自取材もした。そして、その異常さに恐れおののいていた僕は、その「言訳の調書」を読むこともなく、主査の話を断った。詳しいやり取りは忘れたが、「こういう経験をして会計士は成長するんだ」みたいなことも言われた気がする。

 

でも、感覚がおかしくなりそうだった。これを資産と呼ぶなら、なんでも資産じゃないか。そんな資産だらけじゃないか。巨額だし。確かに条文上は損失を免れる解釈が可能なのかもしれないが、それで納得していては監査人としての感性、直感が狂う。この仕事を続けられなくなるのではないか、そんな気がした。

 

この会社は非上場会社だったし、実質的な親会社がいたので、その後、増資等の援助を受けて立ち直っていったようだ。もし、その話を受けていれば、そういうプロセスに主査として立会えて、確かに良い経験になったのかもしれない。だが実際は、主査の話を断って程なく、その監査チームを首になっていたので詳細は知らない(飲み会には相変わらず出ていたかもしれない)。しかし、緩い?会計基準の下で、親会社の方は、その後の会計制度改革が始まるころまで損失を出していなかったのではないだろうか。

 

首になる前のことだが、なぜ会社は損失計上しないんでしょうねと聞くと、まあ、いろいろ話が複雑で僕には良く分からなかったが、とどのつまりは、親会社から来ている経営幹部に汚点をつけないため、みたいな話だったように思う。でもそうしている間にどんどん資産は劣化していったようだ。なぜなら、「言訳の調書」が増えてきていたから。中は読まないが、調書を出したり片付けたりはスタッフの役目だから目に入ってくる。

 

 

さて、もう1社例を挙げよう。上の会社は助かったのでまだよかったが、こちらの会社は、会計ビックバンから暫くして、事実上経営破綻した。僕は、この会社でもお助けマンで、しかも、2度目のお助け時に大失敗をやらかして、監査チーム、特に当時の主査に非常に大きな迷惑をかけてしまった。仕事の手順が悪く、大量の仕事をやり残したのだ。それだけでなく、手順同様、頭も悪かった。

 

そういう事情があったので、この会社の「言訳の調書」を大きな顔して読むわけにはいかなかったが、やはり、漏れ伝わってくる話は聞いていたし、時折、監査部屋や飲んだ席での異常な緊張感を感じていた。この会社の場合は、パートナーと主査の関係、特に会話の態度が異常だった。とにかく部下である主査が、上司のパートナーをドツキまくっている(会話で)。なぜドツイているのかは分からない。徹底して僕のようなお助けスタッフに内容を知らせないように気を付けていたのだろう。しかし、パートナーは血まみれ、ノックダウン寸前で、タオルを投げ入れて欲しい様子だが、立場上退くわけにもいかない。完全にサンドバック状態で、ノーガードで撃たれまくって、主査の気が静まるのをひたすら待つ戦略のようだった。「◯○(主査の名前)~、頼むからもう勘弁してくれ~。」とパートナーが言うのだが、逆にそれが火に油を注いでしまうようで、主査は納まらない。「そんなこと言ってるから、アンタはダメなんだ。」 普通は逆でしょ?

 

他で仕入れた話も総合すると、この会社は次のような状況だったのではないかと思う。

 

この会社は、多数のグループ企業を持つ会社で、買収した会社も多かったし、多角化もしていた。買収や新規事業が成功する場合もあったが、むしろ、失敗が多かった。特に土地は必ず値上がりするという土地神話が生きていたころ、いや、神話が死んでからも、土地目当てで会社を買ってしまうようなこともあったようだ。会社として買収した方が土地だけ切り出して買うより安い、そんなこともあった時代だ。どこかの会社で損失が出ると、含み益のある会社を時価評価しなおして合併して合併差益を出して、その損失と相殺するみたいなことが行われていた。その際、繰越欠損金を存続会社に残すようにして税務上のメリットもとる、という話だった。

 

逆に、土地に含み損が出ているような状態、株式に含み損が出ているような状態があっても、損失計上には消極的だった。連結財務諸表上も、複雑な持分関係が構築されていて、かなり多くのグループ会社は連結子会社ではなく持分法適用会社だった(実態は子会社だ)。したがって、事業の損失も合併差益も持分法投資損益一本で計上される。そうしていくうち、取得原価主義の下で含み益は枯渇し、含み損ばかりが残っていったのだろう。そうなると経営の手は縛られていく。タイムリーに有効な手が打てない(打とうとすると含み損に触れてしまい、つるべ式に損失が表に出てしまう)。そしてついに・・・。

 

 

これら(2社)の事例は、すべてトライアングル体制時代に容認されていた会計処理、取得原価主義の結果だ。特に、含み益を実現させる(益金計上する)チャンスはあるが、含み損は実現させてもらえない(損金にできない)税務規程が実質的な会計基準として機能しており、これが厄介だった。税務規程は、基本的に保守的ではない。

 

上記の例に見るように、含み損や含み益を実現させるタイミングは、経営者の裁量に依っていた。例えば、外部に売却すれば実現できるし、含み益は経営者が何かアクションを起こすことで、実質的に保有したまま実現できる場合がある。そういうこと利用して、上手に損失と利益をタイミングよく出せる方法を立案・提案できる経理マンが良い経理マンと呼ばれることもあった。非常に恣意的だ。だから、いま、会計上の見積りを経営者の裁量が介入すると批判する人は、それはその通りだが、この当時よりはマシと考えるべきだと僕は思う。遙かにマシだ。そして、「ゴーイング・コンサーン経営」が、このような「含み損は発生時に損失計上するのではなく、経営者の裁量に任せて長期的に解決できる余地を残す」という意味ではないことを切に望む。

 

というのは、含み損のまま先送りにしているうちに、2番目の会社のように手遅れになる可能性があるからだ。2000年の直前に経営破綻した旧長期信用銀行2行、北海道拓殖銀行、山一證券、日本リース。僕が強烈な印象を持っているこれらの会社はみな金融機関だが、完全に手遅れとなってしまった。その他の業種でも、助けてくれ~と手が上がったので行ってみたら、不良資産だらけでどうにもならなかったという例はたくさんある。というか、2000年以前、会計ビックバン以前の企業倒産は、多かれ少なかれ、皆そうだ。含み損、不良資産を経営が放置していた。そういう意味では、オリンパスがギリギリ手遅れにならなかったのは、幸運だった。でも、1990年代初頭の営業特金廃止の時に損失処理していれば、損失額は数分の一だったはずだ。

 

損失計上すれば、経営は動かざるを得ない。いや、通常は損失の可能性を察知した段階で動き出す。損失の責任者にも相応の処分がなされるが、額が膨らみ問題が大きくなるほど、再起不能となる。早く動けば選択肢は色々あるはずだ。だが、経営者の裁量に任せて含み損を許容すると、ずるずる問題解決が先延ばしされる。それで得をするのは、先送りして損失を隠し、その間に引退した経営者と、たまたま表ざたになる前に株を売ることができた投資家ぐらいのものだ(インサイダー?)。そして破綻して明るみに出る。

 

そうなれば、その他の色々な関係者が損失を被るが、従業員は悲惨だ。生活の収入基盤を奪われる。転職しても元職の看板がついてくる。今は年金資産を外部拠出したり、年金債務もかなり積んでいるが、その当時は自己都合要支給額の40%という税法基準が生きていた。労働債権が優先されるのはいまも昔も変わらないと思うが、財務的な引当が不足しているなら、十分な退職金が得られないなど、何らかの不利な影響は被っていたのではないかと思う。

 

 

さて、長くなって申し訳ないが、もうひと盛り上がりさせていただきたい。

 

企業会計審議会でのIFRS否定派の発言、オックスフォード・レポートなどに出てくる「トライアングル体制の復活」、或いは「トライアングル体制の存続」の主張が、時々、この時代への回帰を志向したり、この時代への郷愁を覚えてなされているように感じられる。例えば、オックスフォード・レポートでいえば、会計上の見積りを批判した箇所、商法から会社法へ変わって会社法が会計処理を規定しなくなったことを批判した箇所などが正にそうだ。これらの批判通りに会計上の見積りを止め、会社法が会計規程を復活するようになれば、単体の財務諸表本体は、ほぼ1990年代へ逆戻りする。その単体財務諸表を前提にした連結財務諸表も、連結の実質支配力基準など一部の項目を除き、同様だろう。

 

多分、IFRS否定派は、細かく分けると次のような考えの方々の連合だと思う。そして、AやBの方は、時と場合によって、都合よくCの主張を自らの主張に滑り込ませている。そうすると実際はC派なのかと疑ってしまう。

 

  1. 日本基準堅持派(IFRSやUS-GAAPと影響しあいながら独自の進化)
  1. 現状の日本基準で十分派(EUの同等性評価をパスしたレベル)
  1. 会計ビックバン以前に戻れ派
  1. IFRS導入を拒ばむためなら、どれでもよい派(開示コスト節約派?)

 

例えば、オックスフォード・レポートは、要約を見る限り当面はIFRSの任意適用で、Aのスタンスが良いと主張していると思うが、上述のように個別の検討項目にCの主張をすべり込ませている。上記以外に情報開示スピードが速すぎるとか、マネジメント・アプローチは企業秘密だから開示しないという企業関係者のコメントを肯定的に扱っているスタンスにも、その臭いを感じる。含み損の処理は経営者の裁量、経営者のペースでよいではないかと、言外に言っていると考えられなくもない。

 

そのため、オックスフォード・レポートは、企業開示制度をどうしたいのか将来像が見え難くい。作成者はそれを示す意図はないというかもしれないが、僕は、その概略でもイメージできないままでは、賛意を示すことができない。僕以外でも、Cが含まれるのであれば賛成できないと考える人が多いと思う。「含み損」と呼んで損失先送りが容認されていたこの時代に戻ることには、嫌悪感さえ感じる。

 

 

昔会計士をしていた鈴木智英氏や、取得原価主義への回帰を主張したり、シンパシーを感じている会計学者が、どれぐらいこういうことを知っているか分からないが、Cの主張は会計の役割(社会的な役割、経営における役割・機能)を自ら否定するのに等しいと僕は思っている。当時、そういう恥部について被監査会社の方と議論すると、「本当は直したい。でも上が・・・、現場が・・・。」という話になることが多かった。もし、損失計上すると経営として問題解決へ対応を図らざるを得ず、それを避けて先送りしていたわけだ。会計制度を戻せばまたそうなるに違いない。だが、問題解決への戦略なき先送り(=放置)は、結局、会社のためにならない。誰のためにもならない。歴史に学ぶべきだ。

2012年9月22日 (土曜日)

【製造業】日本的経営の特徴

2012/09/22

「監査人であったに過ぎないお前に日本的経営の何が分かる」と思われている方、それはもっともな疑問だ。そこで、僕の主観からスタートしないように、いつもの通り困った時のWikipediaに頼ることにした。下記はWikiから、「日本的経営」の項目にある「日本的経営の特徴」をコピペしたものだ。これを手掛かりに、日本企業(特に製造業)の長期志向性について検討を進めていきたい。

 

=特徴=

・企業間関係

メインバンク制、企業グループにより長期安定的な取引関係を結び、株式持合により部外者の経営介入を防ぐ。

・雇用制度

新卒一括採用、終身雇用年功序列により幹部社員の忠誠心を確保し、企業別組合により労使協調を図る(ユニオン・ショップ制)。

・市場慣行

官僚統制、官民協調、業界団体内調整による規制の強い市場。金融界における護送船団方式が典型例。

・情報公開

緩い企業会計原則の下で、短期的な経営悪化に左右されない、長期的な視点での経営が可能になった。

・収益

長期的収益、永続的発展のために福利厚生施設の設置、社員研修の充実を図る。

・意思決定

稟議制度に代表される、集団主義的・ボトムアップ方式の意思決定。

 

Wikiの執筆者は自説を展開しているかもしれないし、参考文献に記載された本の内容を客観的にまとめていているのかもしれない。後者なら良いが前者なら割引かねばならないので、まずそこを考えてみよう。

 

参考文献に上げられたものは、最も新しいもので1985年で、まさに日本的経営が素晴らしいと賞賛されていた時代のものだ。僕もこの時代に学生をしていて、ゼミは経営学を希望した(が試験で落とされた)。そういう目で見ると、上記は、日本的経営の特徴を否定的に表現しているので、恐らくWikiの執筆者の自説か、執筆者が最近の論調のニュアンスを加えて書いたものだろうと思う。ただ、特徴として挙げられた項目については、セピア色の古い色彩が見えるので、これらの参考文献から拾い出されたものに違いない。

 

それともう一つ、「長期的視野に立った経営」という言葉から思い起こされる「戦略的経営」の要素が入っていない。企業が達成しようとする理念や10年後など長期の目標や理想像を掲げて、それを達成するための長期的な計画・イメージを持って、現在の舵取りをするという臭いがない。戦略的経営には市場環境の変化を予測し、かつ、受動的な対応に終始するというより外部環境へ能動的に働きかけていくイメージがある。環境変化の激しいなかで、零細企業ならまだしも、大企業はもちろん、中小企業でもそういう発想や活動なしに長期の存続は困難な時代になったと思う。だから、上記にこの要素を付け加えたい。

 

確かに「戦略的経営」という概念の発明は海外で行われたものだが、日本企業になかったわけではない。そうでなければ、一発屋で終わってしまう。トヨタやホンダ、ソニーや松下(パナソニック)などがあれほど発展できたはずがない。

 

僕はソニーの前身である東京通信工業の設立趣意書を読んだことがある。感動ものだった。ソニーのHPに今も掲示されているので、ご存じの方も多いと思う。ご存じでない方は、お時間があれば是非お読みいただきたい。日本に戦略的経営があった証拠になると思う。

 

http://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/prospectus.html

 

ただ、戦略的経営があったとしても、戦略実現のための戦術が、欧米企業と日本企業で差があった可能性はある。そこに日本的経営の特徴がみられるかもしれない。例えば企業買収だ。IFRSの批判として、IFRSは会社をモノのように売買するための会計基準というような言い方がある。逆に言えば日本企業はそうではないという主張だ。

 

ということで、挙げられた項目は良いが古く、その説明のニュアンスには注意が必要。そして経営の戦略性という要素も考慮の対象に付け加えることにしたい。

 

 

例によって前置きが長くて申し訳ないが、ここで漸く内容の検討に入ることにする。だが、今回は、検討項目をリストアップするにとどめ、内容については次回以降に順次記載したい。

 

まず、長期志向に関係しそうな箇所を太字にしてみた。すると一見して目を惹くのは、「情報公開」という項目の「緩い企業会計原則の下で、短期的な経営悪化に左右されない、長期的な視点での経営」という言葉だ。まさか、これが「ゴーイング・コンサーン経営」の正体のなのだろうか。如何様にも読める微妙な表現だが、これが損失の先送りを意味するのであれば問題だ。それを金融大臣や経団連会長が望んでいるとなると、世の会計監査人はいらなくなるが、株式投資する人もいなくなるのではないか?

 

まあ、これは1980年代、精々会計ビックバン以前(1990年代以前)の古い会計基準、企業開示制度を前提にしたセピア色の記述だと解釈し、まともに反応しない方が良いとも思うのだが、一つ気になることがある。それは、その時代がまさに、例の会社法、税法、会計のトライアングル体制が機能していた時期と符合するからだ。

 

ということで、1点目はトライアングル体制の時代の(緩い)会計基準は長期志向で、IFRSは短期志向かというテーマにしたい。

 

次に、挙げられた項目全体からのイメージ、共通要素として「共同体意識の強さ」を挙げたい。企業内・外での結束に特徴があると思う。

 

  • 企業内
              長期雇用、終身雇用、企業別組合、社員教育、福利厚生、ボトムアップによる従業員の経営参加
  • 企業外
              長期取引関係…系列・協力工場など、メーンバンク制、規制市場(法的規制の他、業界団体のルールというものもある)

 

経営戦略を推し進めていくうえで、共同体意識を醸成するこれらの仕組みが個別企業の戦術として採用されたと考えるべきか、それとも共同体の存続こそが経営戦略なのか、この辺りも含めて考えてみたい。特に、企業売買とIFRSの相性がよい、というか、「IFRSは企業売買のための会計基準」のような言われ方をするので、共同体意識と企業買収という点についても検討してみたい。

 

 

ちょっと大風呂敷を広げ過ぎて、手に負えるか心配もあるが、とりあえずこんな形でスタートする。

2012年9月20日 (木曜日)

【製造業】ゴーイング・コンサーン経営って?

2012/09/20

今回からは「ゴーイング・コンサーン経営」の意味を考えてみたい。僕には、この用語は突然出てきた印象があって、その内容が良く理解できていない。IFRSが日本(の製造業)に合わないという主張がなされたときに、日本企業の経営姿勢の説明として用いられる用語だが、具体的にはどういうことなのだろうか。

 

困った時のWikipediaには、「継続企業の前提」の項に「企業理念用語としての継続企業の前提」という見出しに、次のような説明がある。

 

主に、倒産せず発展し続ける事を目指す経営という意味で用いられる。この場合ゴーイングコンサーン(going concern)という英熟語で呼ばれる事が多い。これは上場企業の経営者にとっては会計監査を意識したものといえる。そうでない会社であっても後継を意識するために使われている。

 

また、反義語は「清算企業の前提」とされている。

 

どうやら、会計公準(会計原則の前提となるもの)の「継続企業の前提」、即ち、「企業は継続するものとして会計処理を行う」と、あまり大きな違いはなさそうだ。だが、企業が存続を図ることは極めて当然のことだから、それが「日本企業の経営姿勢」として説明されることに不思議さがある。そこで、実際の使われ方を見てみよう。代表的なものが、2011/6/20の経団連会長米倉氏の発言だ。経団連のHPより下記に引用する(「記者会見における米倉会長発言要旨」より)。

 

【国際会計基準について】

国際的な基準の統一を目指すことはよいが、日本の産業界、特に製造業は、投資判断となる一時点の企業価値よりも、ゴーイングコンサ―ン(継続企業の原則)に重きを置いている。IFRS導入に対する米国のスタンスも変化してきていることもあり、わが国でも時間をかけて検討していく方向になっていることは望ましい。

http://www.keidanren.or.jp/japanese/speech/kaiken/2011/0620.html

 

そして、オックスフォード・レポートでは、次のように記載されている。

P122

さらに深刻な懸念が表明されている。・・・全体として、製造業の立場からすれば経営はゴーイング・コンサーンの前提のもと投資回収・再投資というサイクルの中で業務が遂行されるのであり、IASB の推進する期末時点で解散した場合に企業の価値がいくらであるかというような印象を与えかねない会計が推進されることは製造業の持続的成長・発展を阻害するとの懸念である。

 

どうやら極端に表現すると、次のようになりそうだ。

 

  • 一時点の企業価値を高める経営が海外企業で、それにフィットするのがIFRS(短期志向の経営)。
  • 日本企業(特に製造業)は投資、回収、再投資という長期志向の経営をしており、IFRSはフィットしない。

 

すると正確には、継続企業か清算企業か、ではなく、短期志向か長期志向か、という話のように思われる。企業が存続を目指すのはどの国でも当たり前のことなので、そこに差がつくのは考えにくいが、経営者が意識する将来期間が相違するということなら可能性がありそうだ。

 

それともう一つ、IFRSが短期志向の経営にフィットし、長期志向の経営にフィットしないという主張が含まれている。この2つの点を確認することが、IFRSは日本企業(特に製造業)に合わないという主張を理解するポイントになりそうだ。

 

これらを読んで思い出したのが、昨年読んだ本『「国際会計基準はどこへいくのか」田中弘著』だ。同時に『「変わる会計、変わる日本経済」石川純治著』も読んでおり、このブログでは後者の石川教授の本の内容を紹介した(昨年7月)。どちらも同じ方向の主張だったが、石川教授の本は大変興味深く読むことができた。

 

前者の田中氏の本を紹介しなかったのは、論理より印象に訴えるセンセーショナルな表現を多用しており、あちこちで論理が飛んでいるように感じたからだ。その一つが「IFRSは即時清算価値会計」とか「IFRSは即時解散価値会計」という主張だ(どっちだったか記憶に定かでない)。当然首を傾げたくなる内容だった。

 

例えば、IFRSで金融商品等に適用されている公正価値評価を、意識的に有形固定資産などB/S項目全てに適用したごとく話を進めているとか、会計的には「公正価値≠解散価値」とされているのに、それを無視して両者を同一のものとして扱っているとか、突っ込み始めると切がなくなりそうだった。断定口調で主張がはっきりしていて読みやすいが、内容が不正確で、読み手を誤解に導く。したがって、ブログで紹介することは躊躇われた。

 

だが、IFRSに関連して「長期志向経営」ではなく「ゴーイング・コンサーン経営」という表現が使われていることには、どうもそういう誤解が含まれているし、新たにそういう誤解を生み出しそうな気がする。僕は経団連会長や金融大臣がこういう表現を使う裏には、一部の学者がいると感じている(例えば2011/7/9の記事)。どうして学者がそういう大雑把なことをするのだろうか。企業や監査人がそんな財務報告をしたら、関係者から袋叩きにあうと思うが。

 

いずれにしても、上記の2点(日本企業は長期志向の経営か、IFRSは長期志向の経営にフィットしないか)について、次回から検討してみたい。ただ、僕にこれらの問題を検討し、結論を出す能力があるかは疑問だ。このブログが怪しいことはみなさん承知されていると思うが、気を付けてお読みいただきたい。僕もそういう学者以上に大雑把だ。

2012年9月18日 (火曜日)

【製造業】マーフィーの法則と保守主義

2012/09/18

みなさんはマーフィーの法則というのをご存じだろうか。聞いたことがある人は多いのではないだろうか。Wikipediaによれば日本でも1990年代にブームになったそうだ。将来が不確実なので、安易な期待は裏切られることが、ユーモラスに表現されている。基本形があって、それに様々な応用形の“法則”が創作され、付け加えられている。

 

(基本形)

失敗する可能性のあるものは、失敗する。

 

(発展形)

1. 見かけほど簡単なものはない。

2. 何事も、思っているより時間がかかる。

3. 失敗する可能性がいくつかあるとき、最悪なダメージをもたらすひとつが、うまくいかない。

4. 4つの問題点を見つけて対処すると、すぐに5番目の問題が発生する。

5. 悪い状況は、放置しておくと、なお悪くなる。

6. 何かしようとすると、先にやらなければならない何かが現れる。

7. すべての解決は、新たな問題を産む。

8. 誰でも使えるものは作れない。なぜなら、バカは思いもよらない使い方をするからだ。

9. 母なる大地は性悪女だ。

 

なお、上記は下記HPから転載させていただいたが、このHPにはもっと多くの、思わず吹き出しそうになる具体的な事象を対象とした応用形がたくさん掲載されている。(これらの出展は『「マーフィーの法則」(アスキー出版局 1993) 著:アーサー・ブロック 訳:倉骨彰』とされている。)

 

http://www.geocities.jp/fukunopage/murphy2.htm

 

これらの法則は、「なんて悲観的なんだ」という驚きや皮肉の強烈さと同時に、「でもそれ、あるなぁ~」という共感も覚えるので、妙に可笑しい。上記のアスキー出版の本は絶版になっているらしいが、その後も関連若しくは発展形の本が出版されていて、例えば、アマゾンの『マーフィーの法則―現代アメリカの知性 アーサー ブロック (著), 倉骨 彰 (翻訳) 』の商品説明には次のように記載されている。

 

=内容(「BOOK」データベースより)=

「失敗する可能性のあるものは失敗する」というあまりに有名な法則から始まる本書の内容は、この十数年の間に、確実にアメリカ人の生活思想の中に根をおろした。すべてのビジネスマン、研究者、技術者、学生、医者、乞食、政治家、プログラマ、その他の人々に本書をお勧めする。

 

さて、なぜ、こんな悲観論者のぼやき集のような本が、「確実にアメリカ人の生活思想の中に根をおろした」のだろうか。そして、なぜ「すべてのビジネスマン、研究者、技術者、学生、医者、乞食、政治家、プログラマ、その他の人々に」お勧めなのだろうか。そして、我々日本人には関係するのだろうか。

 

日本には、「泣きっ面に蜂」とか「弱り目に祟り目」といったマーフィーの法則に先行した諺がある。こういうものが洋の東西を問わず、そして一部の職業の人だけでなく広く一般的に知られ、根付いているというのは、楽観を戒め、そこまで慎重に考えてやっと物事が予定通り成し遂げられるという共通体験があるためなのだろう。例の「予測された危機」を防ぐことの難しさ、人間の楽観体質の根深さを示しているように思う。

 

さて、前置きが長くなったが、僕は既に、9/4の脱線4の記事で、企業会計原則にある保守主義は、このような楽観的な態度を戒め、もっとリスク管理をしっかりやりなさいという意味ではないかと書いた。そして、そうだとすると会計基準に保守主義を位置づけるのが難しいとも記載した。このように書いたのは、IFRSの概念フレームワークから保守主義とか慎重性という質的特性が削除されたことを意識してのことだが、今回はこの点について、概念フレームワークの「結論の根拠」(付属文書やPART Bとも呼ばれる)を詳しく見ていこうと思う。

 

 

では早速、結論の根拠(BC3.27)より

 

3章では、慎重性又は保守主義を忠実な表現の要素として含めていない。いずれかを含めることは中立性と矛盾するからである。

 

即ち、IASBは保守主義より中立性(中立的な描写)を優先した。企業の財務状況を忠実に表現するには、楽観的でもなく悲観的でもなく中立な態度が必要という主張だ。この結論の根拠では、この主張に関連する公開草案段階でのコメントを次のように紹介している。

 

  1. 彼らは、偏りが必ずしも望ましくないものと想定すべきではなく、特に、偏りが(彼らの考えでは)一部の利用者にとって目的適合性の高い情報を生み出す場合には、そうであると述べた。BC3.27

 

  1. 中立性は達成が不可能であると述べた。彼らの考えでは、目的適合性のある情報は意図がなければならず、意図のある情報は中立的ではない。言い換えれば、財務報告は意思決定に影響を与えるための手段なので、中立的ではあり得ないというのである。BC3.29

 

1では、偏り(保守的な方向への偏り)の必要性を主張したコメント提出者が、そして2では、IASBが保守主義より優先させた中立性は、そもそも達成不可能と考えるコメント提出者がいたことを明らかにしている。

 

 

まず、1について考えてみよう。

 

ここでいう「彼らの考え」は上記の文章では分かり難いが、要するに、資産価値を見積もる場合に、保守的な数字がちょうど良いと主張する人たちがいたということだ。保守的な数字こそが、その資産から企業が将来獲得できるキャッシュフローを読み手が予測するのに役立つと。例えば売掛金の回収可能額が1億円か2億かで迷っていたら1億円を選択しようという意味だ(1億円余分に損失となる)。将来の不確実性が高い見積り項目では、このような判断を迫られる場面がよくある。

 

それに対してIASBは、1億円がちょうどいいなら1億円が中立性のある数字だといっている。(IASBは段落番号BC3.28で、過大なリストラ引当金のように、ある期に業績が過小表示されたものが、その後の期で過大表示されるケースを例に、保守主義より中立性を優先する根拠を説明している。)

 

この両者の主張の差はなかなか埋まらないような気がする。なぜなら両方の言い分はそれぞれ正しいが、立ち位置が違うように思うからだ。「彼ら」にとっては、中立的な数字が分からないから保守的な方を選ぶと言っているのだろうし、IASBはちょうどいい数字(彼らが言うところの保守的な数字)があるならそれが中立的だと言っている。これでは議論がかみ合わない。僕はこれを読んで次のように思った。

 

人間の楽観性 + 保守主義 = 中立性

 

即ち、人間の本能的な部分で企業財政に悪影響を及ぼす過度な楽観主義を、人間の知性・知恵である保守主義でコントロールした結果、会計上の見積りは最善のものになる。最善のものとは即ち、その時点で将来キャッシュフローの流入額に最も近いと考えられる数字だ。そして「彼ら」の方は、保守主義は会計をする人の機能だと考えていて、IASBは保守主義までが経営者とか事業責任者の機能と考えているのではないだろうか。

 

即ち、マーフィーの法則は、経営者や事業部こそが教訓とすべきと考えているのがIASBで、経営者や事業部は信用できないからマーフィーの法則は経理部門に任せよといってるのが「彼ら」ということではないだろうか。さて、理想はIASBだが、現実は・・・?

 

改めて記載するが、僕は保守主義とはリスク管理をもっとしっかりやりなさいという意味だと思う。即ち、IASBと同じだ。なぜかというと、今までの監査人としての経験から、決算上の引当を積み増したとか、決算上子会社株式を減損したなどとしても、必ずしも事業部、現場レベルの行動に結び付かず、問題が放置されるケースを何度も経験しているからだ。むしろ、「決算で落としたからもう解決」みたいなイメージのことさえあった。会計はまずは企業経営のためにある。しかし、保守主義は経理部で、としたとたんに事業の現場と決算が分かれてしまう。

 

それより、事業部等の現場が投資が回収できるように日常的な管理を行い、その結果上手くいかなければ減損等の会計処理へ結び付くというのが最も好ましい。結果として、このパターンが最も減損を回避できる、或いは減損損失を最小化できるに違いないと思う。

 

確かに、日本の減損会計基準と企業で行われる業績管理は合わないかもしれない。それには日本の減損会計が細かい規定を置く細則主義的な作りになっているという事情もある。しかし、減損会計導入以前は、有形固定資産は除却するまでほぼ減価償却するだけで簿価を維持するのが普通だったから、企業も監査人も細かく規定してもらわないと、いつ、いくら減損を行うべきか分からない状況だった。だから細則主義的な規定もやむを得なかった。

 

しかし、もし企業が独自に投資と回収を管理していて、それによって出退店や設備投資・廃止等々の意思決定を適切なタイミングで実施しているのであれば、減損会計もそれに合わせるのが合理的だ。IFRSの減損会計は、原則主義なのに日本基準の倍近いページ数となっている(結論の根拠を含む)が、IFRSの方があるべき企業の経営管理と整合的だろうと思う。もちろん、企業にそのようなリスク管理機能があることが前提だ。単なる損益管理では、IFRSで想定されている投資の回収管理というキャッシュフロー思考のリスク管理の実現は難しい。

 

さて、というわけでIASBは、保守主義は経営者や事業責任者のレベルで働かせるものだ、その方が望ましいと考えていると僕は思う。そして、経営者や事業責任者のレベルで適切な保守主義が働いていないと考えられる場合があれば、残念ながら決算上の取扱いとして、経理部等で減損損失を計上することになる。しかし、それは決して保守的な数字を開示しているのではなく、過度な楽観主義を排除し、適切なリスク管理が行われた状態、即ち中立な状態にするために保守主義を適用し、結果として中立的な描写をしていると考えるべきだろうと思う。

 

 

次に、2のコメント提出者の主張だが、これも上記の結論の根拠の文章は難しい。僕の解釈では、『企業は「我社に投資してください」という意図を持って財務報告をしているので、そもそも財務報告が中立的になることはない。』と言っていると思う。

 

これは保守主義や慎重性に対する直接のコメントではないが、それらが実現しようとしている「中立性」自体が幻ではないか、という指摘なので、この保守主義の話題に関連する。これに対してIASBは結論の根拠に次のように記載している。

 

・・・財務情報が事前に決められた行動をとるか又は避けることを利用者に促すような方法で偏っている場合には、その情報は中立的ではない。BC3.29

 

要するに『「我社へ投資してください。」という意図を持って、偏った情報提供をしたなら、中立的とは言えない。』とバッサリ切り捨てている。IASBは素っ気なさ過ぎるのではないか・・・。ただ、これは返って「忠実な表現」を支える中立性という質的特性のデリケートさを表しているような気がする。

 

即ち、上場会社は投資をしてもらうために財務情報を公表しているし、銀行には融資を受けるために財務情報を提供する。したがって、意図を持っているのは確実なのだ。だが、意図を持っていることと、実際に実態を歪めた報告をすることは同じではない。中立的でなければ失敗の元を作りますよ。そんなことするとマーフィーの法則で結局企業経営が失敗しますよ、とIASBは言っている気がする。

 

 

ということで、IFRSに保守主義の記載があろうがなかろうが、人間に(特に企業経営者や事業責任者に)過度に楽観的となる本能がある限り、企業経営に保守主義が必要というのが僕の意見だ。会計の世界に留めず、もっと経営の中に広げた方が良いと思っている。保守主義はなにもやらないことではなく、むしろ、新しいことに挑戦したり、新しい環境に挑戦する時にこそ必要なものだ。みなさんの会社にも、その方が改善されそうな状況はないだろうか。あれば、そう考えればよいのであって、IFRSにないから保守主義はなくなったなどと考えない方が良いと思う。

 

今回は、【製造業】というタイトルの割には一般論に終始したが、将来に不確実性があるのは製造業ばかりではない。製造業により関係が深いのは個別の論点になってからになると思う。もう少々お待ちください。

2012年9月14日 (金曜日)

【製造業】「ものづくりとIFRS」のシリーズ予告

昨年来、「IFRSは製造業に合わない」という主張の根拠が分からず悩んでいたが、オックスフォード・レポートにある程度の記載があったので、これから暫くの間、このテーマを検討してみたいと思う。

 

主な内容は下記の通りだが、「(1)各勘定科目レベルでの懸念」ついてはある程度具体性があるものの、「(2)保守主義と持続的成長に関する懸念」は、保守主義の問題として一括して?考えざるえないかもしれない。以下は原文の一部をコピ&ペーストしたもの。

 

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(1)各勘定科目レベルでの懸念 P116

 

・・・、原価計算や原価低減に関する機能不全、企業の長期的視点に立った経営の阻害、および企業の規律や内部統制機能の弱体化に関する懸念

 

・特に毎期の原価計算の基礎が不安定になる(非原価化が問題)P116117

 

・「のれん」や「開発費」に関する懸念(裁量に基づく費用化・非費用化)

 

・その他 P116117

退職給付債務の数理計算上差異については、従来は残存勤務期間等の合理的な期間で配分して製造原価に算入する方法がとられていたが、IAS 第19 号(2011 年6 月改訂、2013 年1 月適用)によると、即時にOCI(その他の包括利益)に計上し、リサイクリングを行わないために純利益計算に反映されないこととなる。多くの企業でこの処理は従来の原価計算、投下資本コスト回収、利益性評価という体系を崩すものとして経営管理に資さないものとして理解されている。企業によってはその際の処理が相当金額(多くの会社で200-600 億円単位)に上り、原価計算、財務諸表、および価格設定への不都合が指摘された。

 

退職給付のフェーズⅡで、IASB はキャッシュバランスプランについて、金融商品のように毎期末に公正価値評価して、退職給付債務の期首と期末の差額をP/L に計上するか、OCI に計上することも検討するようである。

OCI に計上する場合は、上記の問題が増幅するだろう。P/L に計上することになると企業の損益のボラティリティが大きすぎることになり、企業は、キャッシュバランスプランのような確定給付年金を廃止して、確定拠出年金に移行せざるをえなくなる可能性もある。

 

・全国レベル労働組合関係の幹部

・・・日本の優れた労働力を長期に確保することによる利益、すなわち資産は認識されない・・・

 

・おまけ

・・・有給引当金の話をすれば、これはきちんと従業員が有給休暇の消化をするようなインセンティブになる・・・

 

 

・再評価モデル

製造現場での地道な原価低減・改善活動の役に立ちません。取得原価を規則的に期間配分して製造原価に算入するようにすべきであると考えます。

 

減損の戻入れ処理 P119

開発費や有形固定資産の減損の戻入れ処理が必要となるが、これは事務作業を複雑にし、新たな減価償却を通じて原価計算・投下資金回収・マークアップ計算等に影響を及ぼすなどの影響は考えられる

 

・IFRS 第9 号による毎期末の非上場株式の公正価値評価

非上場株式への投資の差し控えや、同様にOCI に影響を与える持合株式や海外への投資を控えることを懸念

 

以上のように表明された意見に関し、UNIASプロジェクトは全てに一定の真があるものと考える。IFRS の影響はそれぞれの企業が置かれるその時々の状況によってかなり異なり、個別勘定科目を判断の単位とした場合には、「IFRS が適用された場合の日本全体への影響」という形で評価することは非常に困難である。

 

 

(2)保守主義と持続的成長に関する懸念 P120

根本的なレベルでは、IASB が保守主義を排し、公正価値会計と貸借対照表アプローチによる包括利益を計算することで、特に投資家に資する会計を推進していることに対する懸念が表明されている。

 

まず、長期開発、投資資金回収、再投資を得意とする日本の製造業には、それを可能にせしめてきた合理的な経済行動としての保守主義的会計行為が実務として定着しているが、こうした行為がIFRS では認められないのは不合理であると表明された。

 

また同様に、IFRS 下のセグメント情報ではマネジメントアプローチがとられ、企業内部の管理・報告方法に基づいたディスクロージャーが要求されるが、各事業分野や地域の業績管理が保守的な思想のもとになされているにもかかわらず、IFRS がそうした保守的な思想を排除するのは矛盾していることも指摘された。

 

P121

ここで明らかになったのは、どちらの立場が正しいとか間違っているということよりは、投資家としては公正価値を基礎とした情報がほしい、製造業としては(適切なレベルの)保守主義を内包する会計行為によって企業を管理したいという異なった要求の衝突である。

 

P122

さらに深刻な懸念が表明されている。・・・全体として、製造業の立場からすれば経営はゴーイング・コンサーンの前提のもと投資回収・再投資というサイクルの中で業務が遂行されるのであり、IASB の推進する期末時点で解散した場合に企業の価値がいくらであるかというような印象を与えかねない会計が推進されることは製造業の持続的成長・発展を阻害するとの懸念である。

 

(このあと、色々な方の証言が続くが、一応、下記がそのまとめのようだ。)

 

P124

・・・IFRS 慎重派と推進派のコミュニケーションのミスマッチの原因は二つのレベルで考える必要がある。まずは、IFRS 推進派の関心は投資家のため会計の推進という点(或いはもっと狭義にIFRS という投資家のための会計とその技術論)に限られているのに対し、IFRS 慎重派は会計が投資家のためのものになっていること自体に懸念ないしは不満があり、そもそもの議論のスターティングポイントが異なる点が指摘できる。

 

(このあとは、もはや製造業やものづくりと離れた話になっていくので、ここでコピペを止める。)

 

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とにかく、一番大きな問題はIFRSに保守主義がないということで、そこから投資回収、再投資に支障があって、ゴーイング・コンサーンが危うくなるという理屈のようだ。それを色々な方が色々な表現をしているという感じがする。まずは、この保守主義から始めることになると思う。(但し、脱線シリーズで僕の保守主義のイメージはすでに書いてしまったが。)

 

「なぜ保守主義がないと考えるのか。IFRSに書いてなければないことになってしまうのか。」というのが僕の大きな疑問だが、P124に書いてある「スターティングポイントが異なる」という指摘は面白い。まさにその通りだ。IFRSは企業経営の道具であるべきだ(実際多くの部分はそうなっている)と思う。

 

2012年9月11日 (火曜日)

脱線6~事業性の見積り

2012/09/11

この夏に政府が主催したエネルギーに関する国民的議論は実に興味深い結果となった。各地で行われた意見聴取会、ホームページで募集したパブリックコメント、討論を繰返すことによる意見の変化を知る討論型世論調査の3つの手法などにより、政府が国民の意識を調査した。その結果、政府が用意した3つのシナリオのうち、いわゆる0シナリオ(2030年までに原発依存0にする)の支持が多かったようだ(但し、新聞社やテレビ局の世論調査では15シナリオも多い)。

 

その中で特に注意を惹いたのは、討論型世論調査によるもので、ステップが進むごとに0シナリオを最も支持した人の割合が増えている(電話調査→討論前の調査→討論後の調査;34%42%47%)。その理由だが、意外なことに政府のホームページに掲げられている資料ではドンピシャな記述がない。なんのための討論型世論調査か! と思ったのだが、資料を読んでわかったのは、例のオックスフォードレポートで批判されていた統計的手法による調査だったのだ。要するに最初から決められた質問に対して選択肢を選ぶだけというやつだ。そして、意見を変えた理由を聞く質問も用意されていない。自由に意見を書くスペースもあった気配がない。

 

政府のホームページ(国家戦略室)の僕が読んだ資料

http://www.npu.go.jp/policy/policy09/pdf/20120822/sanko_shiryo3.pdf

(概略だけ知りたい方は、もっと簡単な資料が用意されています。)

 

ただ、0シナリオを選択した人は、安全・安定供給・地球温暖化・コストの中で安全を最も重視し、核放射性廃棄物の最終処分の問題に関心の高いという分析が示されていた。国民が最終処分問題の先送りに「No.」を突きつけたということかもしれない。

 

「解決の難しい問題を将来に先送りする」というのは、一つの知恵かもしれない。だが、どうも良い結果を得られることが少ないような気がする。尖閣諸島などの領土問題でも使われていたようだが、何故「先送りしよう。」という周恩来氏の申し出に、当時の日本の政治家(田中角栄氏?)が「いや、それははっきりしています。日本の領土です。」反論しなかったのか。40年後の今、この対応を正当化できる説得力のある説明ができる人はいるだろうか。当時は日中国交正常化の方が重要と考えたのだろうが、今や日本は、強大な中国の力にびくびくしながら対応している。問題解決を先延ばしにしたのは、明らかに中国の戦略勝ちではないか。

 

どうやら、「解決の難しい問題を将来に先送りする」という知恵は、「問題を放置する」ということではなさそうだ。「問題を有利に運ぶ努力をするための時間を稼ぐ」という戦略なのだ。だからこそ、「知恵」となるのだろう。戦略にはPlan Do Check Actionのサイクルが必要だ。日本にはそれがなく、中国にはそれがあったということか。中国は改革開放で経済力、軍事力、国際政治力もつけたが、日本は運を天に任せて楽観的に問題を放置した。これは、核廃棄物の最終処分問題も似ている。

 

核燃料サイクルの技術開発も、最終処分の技術的問題や処分場の選定問題も、尖閣諸島が問題になった頃から将来に先送りされ続けてきた。事業計画があって、それが大きく立ち遅れているにもかかわらず、将来に楽観的な期待を持ち続け、根本問題を解決してこなかった。そして、東日本大震災をきっかけに、予測された危機が顕在化しようとしているというわけだ。きっと、仕組みはあってもリスク管理意識の高い人が少なかったのか。少しも保守主義ではない。自民党は本当に保守政党だったのか?(僕は民主党の支持者ではありません。)

 

さて、そういうわけで原子力発電事業は明らかに環境変化があるが、どの段階で減損の兆候と考えるか、慎重な判断がこの先どこかの時点で行われるに違いない。減損の兆候に当たるとされれば、将来キャッシュフローで簿価が回収できるか否かのテストが行われる。そのために、耐用年数到来後も原子炉を使い続けられるか、とか、定期点検後に速やかに再起動できて一定の稼働率を確保できるか、追加の安全対策に係るコストはどれぐらいか、核廃棄物の最終処分や原子炉廃止コストは従来の見積りで良いかなど、色々な前提条件を整備していく必要がある。そうなってしまうのはやむを得ないが、事は減損すれば済む問題ではない。

 

問題の本質は、リスク管理、保守主義、重要性だ。こういう事業としての致命的な状況に至る前に、変化を察知し、それが重要かどうかを判断し、重要な問題を徹底的にリスク管理してこなければいけなかった。そこの反省がないと、減損会計だけやっても前進がない。そこを改善しないと、廃炉や最終処分の問題も解決に至らないのではないだろうか。(その先の発送電分離問題も。)

 

というわけで、減損会計は、減損に至る前のPlan Do Check Actionのサイクルが重要であり、減損する時には、撤退するのか、転用するのか、ほそぼそと事業継続するのか、その先のプランまで考えてあるというのがあるべき姿だ。

 

 

という長~い前置きのあと、いよいよ、脱線シリーズ最後の会計上の見積りだ。会計上の見積りは、会計の税務離れを決定的なものとなるきっかけとなった。なぜなら、恣意性が入り過ぎるとか、手元資金が増える前に見積りによる利益に課税すると金利負担など余分な企業負担が発生するなどとして、税法が追随してこなかったためだ。

 

僕は“事業性の見積り”と何度か記載してきたが、そんな分類見たことないといわれる方が多いと思う。実は僕も見たことがない。そこで、僕が想定している主なものを下記に記載する。上述の会計上の見積りに対する批判に関しては、前者については後述するが、後者の批判については、下記の見積り項目は利益を増やさないから該当しないと、特に説明なしにご理解いただけると思う。

 

=事業性の見積り=

  • 市場性のない有価証券の減損処理額
               典型的なものは、子会社や関連会社株式の減損処理額の見積りだ。子会社や関連会社の
    事業計画の評価が重要になる。

 

  • 棚卸資産の減損処理額
                    販売価額が下落するなど、販売利益が見込めなくなったものが減損される。販売利益が見込めるかどうかの見積りは、棚卸資産の滞留状況、販売価格の推移など、
    事業計画作成の基礎データと関連する。

 

  • 繰延税金資産の計上額
               将来の課税所得を見積り、将来税金支出が見込まれる範囲で繰延税金資産を計上する。将来課税所得の見積りは、
    事業計画に基づく。

 

  • 固定資産の減損処理額
               収益やキャッシュフローの生成単位ごとに、将来キャッシュフローで簿価を回収できない部分が減損される。将来キャッシュフローは基本的には
    事業計画に基づいたり、関連した見積りとなる。

 

  • M&Aなどの取得資産・負債(負ののれんとなる場合を除く)
                    会計基準としては、個別の資産・負債の時価の見積りが取得価額となるが、取得企業の投資の意思決定のベースになるのは、被取得企業や事業の将来キャッシュフローの見積りだ。その基礎になるのは、やはり
    事業計画だ(基本的には買収される会社のものだが、シナジー効果を強調する場合は買収する側のものも)。

 

一応、「事業計画」のところを太字にしたが、事業計画に関連するものが事業性の見積りというわけではない。企業が社会に提供し、社会からキャッシュフローを得ようとする活動に直接関連する見積り項目をリストアップしたつもりだ。そこでは、企業が将来の不確実性に積極的にチャレンジし、解決策を見出し、だからこそ社会に存在意義を知らしめることができ、企業やその経営者が尊敬を集める。成功など約束されていない、不確実性の大きな分野に関連する。

 

しかし、上記を見ると“減損”の文字が目につく。その文字のない繰延税金資産も、計上する時より取崩す時に大きな話題になるから、ネガティブな項目ばかりと思われるかもしれない。成功すれば賞賛を集めるが、失敗すれば“減損”では、“事業性の見積り”のイメージは暗い。

 

だが、不確実性の高い困難なチャレンジをしているのだから、失敗があるのは当然だ。問題は、それが致命的にならないことと、それをその後の糧にできることであり、それがリスク管理であることはすでに9/3の脱線3の記事等でも触れている。そして、事業を成功させるのが社会から尊敬される、プラスの評価を受けるというのは、それが社会と行う緩い約束を果たすことになるからで、その緩い約束が果たせないのであれば、理由をしっかり説明することで、社会からの信用を維持できる。この理由づけもリスク管理が提供する。この辺りのことも、9/1の脱線1の記事で触れている。

 

会計上の見積りといっても、事業を行っている現場と独立して経理部だけで作成したものでは意味がない。投資額の回収に失敗しそうなときにのみ表面にあらわれるのでイメージが悪いが、その会計処理の前、リスク管理の精度を上げる保守主義や重要性の判断を含めたリスク管理の予測と実績のギャップ分析とその対応こそに、減損会計などの事業上の見積りの本質がある。

 

もしかしたら、「減損は監査人から指摘されるまで上げないもの」という不文律をお持ちの企業はないだろうか。さすがにこれでは内部統制監査で重要な不備の指摘を受けてしまうが、「減損は経理部が言い出すもの」という暗黙のルールでもよい。要するに事業責任者が減損に対して受け身の意識しかない状況だ。

 

くどくて申し訳ないが、事業は、社会に貢献することで投資額以上のキャッシュフローを獲得し、正味のキャッシュフローを産み出すために行われる。それが、現状の延長線上では達成できない見通しとなった時に減損の問題が出てくるから、事業責任者にとっては本来は本質的な問題だ。それを受け身でいては、リスク管理(仕組みも重要だが、むしろ保守主義や重要性の判断を含めたリスク管理“意識”)に問題があるのかもしれない、ということになると僕は思う。(ちなみに、損益管理、P/L項目ばかりで日常管理、予算管理をしていると、キャッシュフローで投資額を回収するという感覚は育ちにくい。)

 

見積りは恣意性が入りやすいというが、もともと不確実な事業を相手にしているものだから、いつも予測と実績が一致するわけではない。恣意性云々は、受け身の事業責任者がとって付けたような説明をするからで、決算のためでなく、日常的に行われているリスク管理から導き出されたものであれば、説得力が出てくるものだと思う。

 

しかも日本の減損会計基準では、2期連続赤字という“時間稼ぎ”も用意されている。事業の種類によっては、或いは、新規事業の場合は、もっと余裕が設定される場合もあるだろう。リスク管理しながら試行錯誤を繰り返して結論を導く時間はある。もし、その間に問題が放置されていれば(解決できなければ)、撤退するのか、転用するのか、細々続けるなど、その後のプランに応じた減損はやむをえまい。

 

そう考えると、普通であれば、事業上の見積りに恣意性が入る余地は意外とない。それでも恣意性が入るとすれば、そもそものリスク管理に問題があるか、事実を捻じ曲げようとする意図がある場合が多いのだろうと思う。ただ、意図的にやってしまうと、日常のリスク管理と密接なだけに、経営に与える悪影響が大きい。せっかく育てたリスク管理意識を破壊してしまう可能性もある。確かに、監査人や財務諸表の読み手は注意が必要かもしれない。

 

というわけで、脱線しまくった脱線シリーズはこれでお終い。

2012年9月 7日 (金曜日)

脱線5~重要性の本質はリスク管理?

2012/09/07

今回の記事のタイトルを見て、「なんだ、前回の保守主義の二番煎じか」と思われた方は鋭い。ただ、今回は例を挙げて検討してみたい。

 

重要性という言葉も一般に使われる用語であり、会計独自のものではない。保守主義の場合は、何を守ろうとしているか、どうやって守ろうとしているかに着目したが、重要性の場合は、目的に着目することになる。即ち、目的に役立つものは重要だし、役立たなければ重要性がない。

 

早速、企業会計原則の記載を見てみよう。重要性の原則は、一般原則の2つ目の正規の簿記の原則、4つ目の明瞭性の原則などの注解として、次のように記載されている。

 

〔注1〕重要性の原則の適用について(一般原則二、四及び貸借対照表原則一)

企業会計は、定められた会計処理の方法に従って正確な計算を行うべきものであるが、企業会計が目的とするところは、企業の財務内容を明らかにし、企業の状況に関する利害関係者の判断を誤らせないようにすることにあるから、重要性の乏しいものについては、本来の厳密な会計処理によらないで他の簡便な方法によることも、正規の簿記の原則に従った処理として認められる。

重要性の原則は、財務諸表の表示に関しても適用される。

重要性の原則の適用例としては、次のようなものがある。

(1) 消耗品、消耗工具器具備品その他の貯蔵品のうち、重要性の乏しいものについては、その買入時又は払出時に費用として処理する方法を採用することができる。

         =省略=

 

以上、目的は「企業の財務内容を明らかにし、企業の状況に関する利害関係者の判断を誤らせないようにすること」であり、当たり前の話だから、今回の記事はなんの盛上りもなく終了しそうだ。しかし、実は一つだけ難しい問題がある。それは、この目的に役立つかどうかを一律に測れないことだ。

 

 

例えば金額的には重要性の乏しい消耗品、例えば組立工場でネジを購入時に費用処理することは可能だ。だが、生産現場では部品展開表で必要とされていたネジ1本が使われずに余っていたら、製品の品質に問題をきたすので大騒ぎになることがある。このネジは重要なのか重要ではないのか。

 

この工場では、ネジも他のより高価な部品と同様に、仕入時に検品・検収したものをコンピュータへ登録し、所定の棚に格納する。そして、生産計画表からブレイクダウンされた部品展開表に従って、他のより高価な部品と同様に適時にピックアップし、組立の現場へ払い出す。また、仕入検品時や棚卸時に個数は数えないが、重量を計って個数を計算し、購入量と払出量から推定した在庫量と比較される。要するに生産管理上、他のより高価な部品と変わらない扱いなのだ。

 

そこへ、例えば、若い会計士が来て「ネジは重要性ありませんね。資産計上する必要はないですね。」と言ったとする。「重要性の原則が適用できますよ。それにその方が保守主義にも合ってます。」などと言い添えるかもしれない。

 

もし、重要性の原則を適用し、このネジを資産計上対象から外すと、コンピュータ処理上、それ用のプログラムを開発しなければならない。即ち、消耗品かどうかを識別するフラグを設け、マスター登録する必要が出てくる。生産管理の帳票では他の部品と同様に扱われるが、会計上のみ別に集計される。でなければ、手作業でそれをやるか。だが、そもそも重要性がないもののために、プログラム開発したり、手作業でコストを掛けるのか?

 

そういうネジのようなものが総額で10億円あれば、10億円資産が減って費用が増加するから億単位で節税になりますみたいな説明もあるかもしれない。(節税できるのは最初の一年分だけだが。)

 

以上は、全くの空想話だが、なんか、おかしな話だ。生産現場の感覚と会計処理が違ってよいのだろうか。経営者としても、ネジ一本までの厳格な品質管理を現場に求めているとすれば、違和感を感じるだろう。

 

 

また、次のようなケースもあるかもしれない。

 

2期連続大赤字を出して、監査人と継続企業の前提に重要な疑義・不確実性があるかないかを議論した時だ。とりあえず、当期末の時点では重要な不確実性はないという結論になったが、当座貸越契約の未実行残高の注記の集計について、突然監査人から注文がついた。少々集計作業が面倒になりそうだ。だが、そもそもこれは、金融商品会計基準実務指針の311-2で「将来の借入余力を示すキャッシュ・フロー情報として有用であるところから、・・・注記するのが望ましい。」とされている任意開示項目を、自発的に開示したものだ。あまり集計作業に手間を掛けたくない。

 

もう少し詳しく書くと、監査人は「当座貸越契約には会社の申込で自動的に借入できるものと、銀行側で審査を経ないと借りられないものがあるから、調べて自動的に借入できるものだけを注記の対象にしてください。」と言った。そこで、なぜ集計内容を変えるのか理由を尋ねたところ、「重要性が増したのです。」と言われた。ピンとくるものがなかったので、「任意開示項目だから開示を省略します。」と言ってみたが、ダメと言われてしまった。何の重要性だ?

 

社長にこの経緯を報告したところ、「それは本当か。あれはすべて自由に借りられるのではなかったのか。すべて確認して金額を正確に押さえなさい。」と言われた。そうか、やはり重要なのか。

 

これも空想話で、あまり厳しい資金繰りを経験していないCFOを主役に、もともと注記金額の集計内容が注記の趣旨に相応しくないことに気が付いていたが、重要性が低いと見直しを見送っていた監査人、そして金融機関の厳しさを理解している経験豊かな社長を想定した。

 

ポイントは、任意開示項目となっているので、会計基準上も重要性が低いと扱われている当座貸越契約の未実行残高の注記が、なぜ、監査人と社長によって重要と認識されたかだ。殆どの方が、「2期連続大赤字を出した」点に着目されたと思う。当期末時点では重要な不確実性はないとの結論に至ったことから、資金繰りが急に困る状況ではないが、今後の業績によっては金融機関の融資姿勢が変わることは十分想定される。そういう時の金融機関は本当に厳しい。そのときこそ、借入余力が重要になる。そうなると、もはや今の時点では、任意開示項目ではないし、正確に押さえる必要性のある数字となった、というストーリーになっている。

 

 

さて、この2つの空想話の共通点は、重要性を会計処理や開示の基準からではなく、経営面から光を当てたことだ。僕はこのような話に仕立てたが、みなさんの感想はどうだろうか。やはり節税できる方が良いと考え、そして、会計基準が任意開示項目の扱いだから開示を省略してよいと考えるだろうか。

 

日本の会計基準は、数値基準で重要性を判定させる項目が結構ある。もしそれが強制規程であれば、それに従わざるえない(或いは、準拠か説明かの「説明」を選択する余地もあるかもしれない)。しかし、重要性を企業の判断に委ねている項目も多いし、会計基準に定めのないレベルの処理に関しても、簡便的な方法が採用されていることがある。その重要性の判断は、「財務諸表の読者、企業の利害関係者にとって重要かどうか」によることが建前だが、現実にはすべての読者、利害関係者の関心など多様過ぎて分からない。細かく考えていくとすべてが「重要」になりかねない。それをどんな考え方で整理し、判断すればよいだろうか。

 

様々な利害関係者がいるといっても、やはり財務情報の提供先として意識するのは、会社全体に関心を寄せる人々だ。この借入金さえ返してくれればいいとか、労働債権にしか興味がないとか、会社の一部分しか見ない人達との利害調整が必要であれば、別に考えた方が良い。(できれば、そういう人達とは付き合わない方が無難だ。Win-Winの関係になりづらい。) 会社全体に関心を持ってもらえる人々が相手であれば、経営面から重要性を考えれば、おおよそ問題ないはずだ。

 

僕の経験では「経営にとって重要かどうか」で判断しているケースが実際に多いと思う。ただ漠然と「これは重要性が高い(或いは、低い)ですね。」「そうですね。」と言う会話が、会社と監査人でやり取りされていても、その根底には、「そこに注目すると改善につながる(或いは、つながらない)」という経営上の価値判断があるように思う。しかし、漠然とした会話で留まって掘下げられないと、経営上の気付きのチャンスでありながら、それを逃してしまうことになる。

 

本来であれば、何について簡便的な会計処理や開示を採用していて、何を正規の方法でやっているかは、見直す機会を設けた方が良い。そんなことをやっている時間もないし、コストもかけられないと言われるかもしれないが、事業環境は常に変わっているのだから、従来の方法を継続していれば問題ないと考えるのは危険だ。むしろ、どこかに扱いを変えられるものはないか、ぐらいの姿勢が良い。そこにリスク管理の観点から光を当ててみると、事業内容や会計基準の理解をより深めるきっかけにすることができる。

2012年9月 6日 (木曜日)

【OxRep】やはり中止します。~トモ・スズキ氏?

2012/09/06

既にご存じの方も多いと思うが、このオックスフォード・レポートの作成者である「トモ・スズキ」氏の資格詐称が報じられている。しかも、これを正そうとした日本公認会計士協会(以下、「協会」と記す)が、金融庁から「よいではないか」と怒られたらしい。あり得ない。本当だろうか。ご興味のある方は、下記をご覧いただきたい。他にも、あり得ないことが色々記載されている。

 

 金融庁が「詐称」を容認した学者(磯山友幸のブログ)

 

さて、あまりに信じがたいことだったので、僕は協会のホームページにある会員検索(会員専用ページ)で「スズキ トモ」を検索してみた。よみがなで検索したところ、10名が検索されたものの、いずれも「スズキ トモ◯◯」というような読み方の方々であり、ずばり「スズキ トモ」という人は、9/5現在、会員・準会員には存在しなかった。公認会計士を名乗るなら、ずばり「スズキ トモ」で登録しなければならない。どうやら「スズキ トモ」氏が公認会計士ではないことは本当のようだ。

 

しかし、問題は「公認会計士です」と名乗ったかどうかだ。これについては検証方法のアイディアが浮かばない。磯山友幸氏を信じるしかないのか。

 

だが、「スズキ トモ」氏は、大手監査法人に勤務した経験があり(Saïd Business SchoolHPによれば、Arthur AndersenとKPMGの東京事務所)、旧公認会計士二次試験、三次試験に合格したとオックスフォード・レポートに紹介されているので、その期間は日本公認会計士協会に所属していたはずだ。であれば、退会後に公認会計士と名乗れば資格詐称になることを知らなかったはずがない。また、オックスフォード大学の研究者である「スズキ トモ」氏が、そのような資格詐称をする動機が分からない。「オックスフォード大学教授」で十分だろう。

 

ところで、公認会計士という職業は、法律上、日本公認会計士協会に登録した個人名で成り立っている(公認会計士法 17条、第46条の2、第48条)。賛否両論あるが、監査報告書に監査人が自署・捺印するのもその流れで来ている。協会は、協会規則を運用し、公認会計士が規則違反を行ったかどうかの判定も行う。規則違反と判定されれば、同時に公認会計士法や証券取引法などの違法行為となることもある。このように協会は、単なる業界団体組織ではなく、監査制度など、公認会計士に関わる国の諸制度運営の一端をも担っている。その要となるのが、協会に登録しないと公認会計士という肩書を名乗らせないこのルールだ。このルールがないと、協会が規制できない公認会計士がいることになってしまう。だから、登録されていない「公認会計士」に警告を与えるわけだ。法律違反を犯してますよと。そして協会に登録した個人名が重要であることもお分かりいただけると思う。

 

さて、僕はこのオックスフォード・レポートや「スズキ トモ」氏について8/25の記事で、「好意的に考えてもやっつけで作成されて、内容が作成責任者によってちゃんと推敲されていないか、或いはレポート作成者に日本の会計基準を評価する実力がないのではないか」などと書いて、レポートの信頼性と学者としての倫理観を疑った。さあ、それでも「スズキ トモ」氏を信じるか、それとも磯山友幸氏を信じるか。

 

何を信じたらよいのか難しいことになってきたが、一つだけはっきりしてきたことがある。それは、このオックスフォード・レポートに対する僕の関心がグッと失せてきたことだ。ということで、続きを期待されていた方がいたら申し訳ないが、このシリーズは中止にさせていただきたい。

 

 

ところで、こんなことを書くと「匿名でブログをやってるお前はどうなんだ。会計士と名乗るなら協会へ登録した個人名を出せ」と怒られそうだ。確かに「はみだし会計士」で会員検索したところでそんな会計士は検索されるはずがない。何とも怪しいブログだ。だから、実名を出していないこのブログには、なんの権威もない。(実際には実名を出しても権威がない。。。) 

 

しかし、実は、権威があっては困るのが、このブログだ。

 

このブログは、IFRS解釈に関する草の根の議論を盛り上げたいという意図があってやっている。ご存じのとおり、僕は原則主義が大好きなのだが、その原則主義のIFRSを上手に適用していくには、IFRS解釈について、IASB(国際会計基準委員会)やIFRIC(国際財務報告解釈指針委員会)頼みではダメだと思うのだ。日本の取引慣行の会計処理は日本で判断・解決できるように、そして個別企業のことは各社(と監査人)で解決できるようにと願っている。そのためにはもっと草の根のIFRS論議が盛上り、IFRSに対する理解が深まっていくことが必要というのが僕の持論だ。そして、そのきっかけやヒントになるようなことをこのブログで提供できれば、と思っている。

 

だが、もし仮に、IFRS解釈の根拠とされるような権威を持ってしまったら・・・。まあ、あり得ないが、でも仮にもしそうなったら、逆に、このブログが草の根議論を抑制してしまうかもしれない。それでは困るのだ。自意識過剰か、単なる妄想だと失笑されそうだが。

2012年9月 4日 (火曜日)

脱線4~保守主義の本質はリスク管理?

2012/09/04

保守主義というと、一般には政治的な立場を表す言葉で、「保守主義は伝統に倣い、これを墨守することを重要視する政治思想である。(Wikipedia)」とされる。だが、改革を否定するものではなく、例えばイギリスのサッチャー政権は保守党だが、国営企業の民営化や、それまでの労働組合の立場を尊重した社会・経済システムを市場重視へ大幅に改革した。何を「守るべき伝統」と考えるかで、保守主義の内容は様々だ。極端に言えば、労働組合の立場を「守るべき伝統」と考えれば、社会主義政党が保守と言われるのかもしれない。もしかしたら、政治的な保守主義は、漢字の意味とあまり関係のない言葉かもしれない。

 

では会計上の保守主義が守ろうとしているのは何だろうか。下記のように、企業会計原則では7つしかない一般原則の六番目に保守主義が規定され、さらに注解もついている。

 

六 企業の財政に不利な影響を及ぼす可能性がある場合には、これに備えて適当に健全な会計処理をしなければならない。(注4)

 

〔注4〕保守主義の原則について(一般原則六)

企業会計は、予測される将来の危機に備えて、慎重な判断に基づく会計処理を行わなければならないが、過度の保守的な会計処理を行うことにより、企業の財政状態及び経営成績の真実な報告をゆがめてはならない。

 

会計上の保守主義が守ろうとしているものは一般原則に示されている「企業財政上の健全性」だ。そして注解4では、そのために慎重なリスク判断に基づいた会計処理を行いなさいと言っている。この趣旨で、保守主義は「慎重性」という言葉で、置き換えられたり、補足されることがある。

 

ところが保守主義は、「たくさん費用を計上すると節税でき、財務的健全性が高まる」という意味に誤解されることも多い。しかし、これは保守主義の一側面ではあっても、すべてではないし、本質でもないと僕は考えている。

 

税務上加算調整しなければならない費用でも、計上すべき費用は計上すべきだ。しかし、この考え方だと加算調整する項目は、費用計上しても節税にならないので、費用処理してもしなくてもどちらでもいいことになってしまう。むしろ、加算調整するだけ面倒だから、費用計上を止めようということになりかねない。だが、それでは“保守的な会計処理”にはならない。そもそも、企業会計原則がわざわざ「節税しましょう」なんて基準を設けるわけがない。

 

本質は「予測される将来の危機に備えた慎重な判断」にあると僕は考えている。楽観への戒めだ。「予測される将来の危機」というと、今年2月にこのブログでも取上げようとした『「予測できた危機をなぜ防げなかったのか?」(マックス・H・ベイザーマン、マイケル・D・ワトキンス著、東洋経済新報社)』という本を思い出す。人間には楽観を信じやすく悲観を遠ざける本能があるという。この本能はこの本ばかりでなく色々なところで取上げられ指摘されているから、みなさんもご存じだろうし、具体的に思い当る方も多いはずだ。

 

例えば、「年末ジャンボ宝くじは10万本に1本5千万円以上が当たる」などと聞くと多少期待する。だが、それより高確率の「毎年1万人に一人交通事故で死ぬ」と言われても、自分のことだとは思わない。楽観できることは、困難に立ち向かって人生を生き抜くうえでは欠かせない本能だが、経験を積上げるとこの“保守主義”という知恵が生まれる。その知恵、慎重さに欠ける人を「まだ青いね」などという。(他人事ではないが・・・)

 

即ち、会計上の保守主義とは、将来の不確実性を伴う事象について、放っておくと楽観的な会計処理がなされやすいから、それを戒める原則だ。人間の本能に関することなので、節税云々より根が深く対処が難しい。企業は、或いは、企業経営者は、外部環境の変化に適用するため困難に立ち向かっていくわけだが、そこに慎重さが欠けると企業財政を破壊しかねない。保守主義は、困難に立ち向かうことを否定するものではない。だが、その際にしっかり研究して予測を立て、最悪の事態を避け、また予測と現実のギャップに適切に対処できる準備をするよう慎重さを求めている。もうお気づきだと思うが、これはリスク管理だ。すると会計上の保守主義の本質は、リスク管理の精度を上げよ、ということになる。

 

しかし、やはり疑問が晴れないという方が多いように思う。それでは会計処理の話ではなくなってしまうではないかと。もっと単純に「費用(負債)はなるべく早く、多く。収益(資産)はなるべく遅く、少なく。」が保守主義ではないかと。

 

そこで、もう一度注解4に戻ると、「過度に保守的な会計処理で真実な財務報告を歪めてはならない」との趣旨が述べられている。真実な財務報告とは企業会計原則の一般原則第一の真実性の原則のことだが、ここから次のいずれか(或いは両方)の意味を読み取ることができる。

 

  • 保守主義は真実性の原則の範囲で認められるもの
  • 保守主義は真実性の原則に従属するもの(真実性の原則を満たすための手段)

 

どちらが本質だろうか。前者であれば真実性の原則には一定の幅があり、その幅の範囲で利益少なめの処理をすることが保守主義であり、後者であれば正しい利益額を計算する(=真実の報告をする)ためには慎重な判断に基づく会計処理が必要ということになる。

 

恐らく、一般には前者の解釈がなされていると思う。それを全く否定するつもりはないが、それで十分とも思われない。というのは、一定の幅がそれほど大きなものになるとは思われないし、その程度のもので企業財政の危機が救われると思われないからだ。やはり後者の真実の報告をするために慎重な判断をせよ、というのが保守主義の本質ではないだろうか。

 

例えば、・・・

在庫を見て、それが販売可能かどうかは将来事象で不確実性がある。資産計上するにあたっては品質劣化がないか、流行遅れになってないか、数は正しいか、慎重に判断せよ。現場にその意識を徹底させ、実地棚卸を行え。

 

もし、契約で購入量が一定数量に達しない場合はペナルティが課されているとすれば、簡単に達成できるなどと考えず、達成できない可能性に意識を向け、可能性が高まれば速やかに対応できるよう準備をせよ。ペナルティを請求されてから慌てないように。

 

一定の金額の幅で在庫の品質やペナルティに気をつけよ、ということではないし、そんな幅の制約があったら逆に企業のためにならない。やはり保守主義の本質はリスク管理と思った方が良い。だが、ますます不思議になる。なぜこんな会計と離れたことが企業会計原則の一般基準にあるのか? 帳簿や仕訳以前の話ではないか。

 

残念ながら、この疑問に僕は答えられない。それどころか、9/1の記事に記載したように、会計原則は通常、企業とその外部利害関係者との関係で語られるものなのに、企業財政上の健全性は企業自身、企業内部の管理の話だ。なぜ企業会計原則の一般原則にこのような異質な規定があるのだろうか。謎は深まるばかりだ。

 

ただ、あまりにポジティブな経営者に、心配性の経理部長や会計士が「ちょっと待ってください」と言うための根拠が欲しかったのかもしれない。とすれば、ガバナンスの話にもなる。ん~、本当に保守主義というのは奥が深い。

 

あと一つ考えられるのは粉飾の防止だ。意図的に実態より楽観的な会計処理を行えば、粉飾になる。粉飾をすれば、そのときは良くてもいずれは企業財政が破たんするリスクを背負込む。だが、それは真実性の原則でカバーされているはずなので、重ねて規定するとダブってしまう。それともダブらせて強調するほど粉飾が心配だったのか・・・。それは分からないでもないが、そうだとする確信は持てない。

 

さて、何とも歯切れの悪いことになってしまったが、とにかく保守主義は、会計と一線を画す帳簿以前のリスク管理の話で非常に重要だが、会計基準の中での位置づけが難しいという僕の意見が一応お分かりになっただろうか。

 

一方で、現在の会計は見積りというリスク管理の予測・期待に当たるものを会計処理の対象にしている。即ち、会計上の見積りでは会計と保守主義が直接関連している。既に発生し、確定した事象を仕訳するのに保守主義はいらないが、将来事象、不確実性のあるものを見積もる場合は、仕訳を起こす前に、リスク管理がしっかりできているかに注意を向ける必要がある。したがって、会計原則の理念たる一般原則に、リスク管理をしっかりやれという保守主義があることにはなんとなくしっくりこないものを感じるものの、個別の見積り項目の会計基準に保守主義が具体的な姿になってビルト・インされているならば、僕は自然に思える。(だが、リスク管理は企業の任意の形があるので、あまり細かい規定の仕方は願い下げだ。)

 

ちなみに、IFRSはそういう形になっているように思う。概念フレームワークから保守主義も慎重性もなくなってしまった。既に記載したようにオックスフォード・レポートでもそれが批判の対象になっていた(オックスフォード・レポートは、恐らくこのことばかりでなく、公正価値による評価益の計上が保守的でないという点も含めて批判しているのだと思う)。これについてはまた別の機会に検討してみたい。

2012年9月 3日 (月曜日)

脱線3~リスク管理

2012/09/03

「リスク管理」というと、何か高級ブランド品のようでカッコいいが、ロゴさえあれば一定の価値が保証されるという形式的なものではないし、好きな人だけが持つ嗜好品でもない。マイナスの影響を想定して使われることが多い言葉だが、ある変化がプラスの影響を持つかマイナスかというのは紙一重で、マイナスだけ察知できればよいというわけでもない。不確実な将来に対して適切な備えをする。競争相手より良い備えをすれば、大きな利益につながる。誰もが欲しがるが、完璧にできる人はいない。だが、上手い人もいれば下手な人もいるし、企業における巧拙の差は意外に大きいように思う。

 

リスク管理は特定部署が担うだけで足りるものではない。確かに、リスク管理に関連して形として見えるもの、例えば、リスク管理規程だとか、事業計画、予算統制とか、稟議書、内部監査等々については、それぞれ管理を担当する主管部所がある。だが、それらを支え、魂を入れるのは、リスク管理意識というか、当事者意識という組織構成員一人ひとりの精神的な態度やそれを重要なものとして扱う組織の雰囲気、即ち、統制環境だ。

 

ちなみに、あの内部統制の3点セットを思い出せる方は思い出してほしい。その3点セットの中心をなすリスク・コントロール・マトリックス(RCM)という表の各行は、内部統制目標だとか、リスク、アサーションといった単位で細かく作成したはずだ。うざい、と思われた方も多いと思うが、あれは各現場にリスク管理“意識”を高めるためのツールでもあった。(細かくし過ぎると形式的になり、逆に形骸化する。みなさんのところは大丈夫ですか?)

 

あらゆる部署が、それぞれに直面している事業環境の変化を察知し、影響を評価し、対応行動を立案する。だが、今のままで良いと高を括っている人が多い部署ほど、変化への感度が低く、外部や関連部署と摩擦を起こし、のちのち組織全体に迷惑をかける。もし、経営者がそうであれば、その企業は悲劇だ。そういう人がトップになるはずがないと思われる方もいると思うが、組織全体に変化を嫌う雰囲気が強ければ起こりえることだし、経営者が、営業面の関心は強くても管理には無関心(あるいはその逆)という場合でも、無関心な分野で起こりえると僕は思う。

 

そういう組織・分野では、ルールは細則に至るまで遵守が最優先され教条主義的に運用されるか、逆に無視されて、低レベル・ご都合主義での組織間の利害調整が行われやすくなる。ルールの運用に知恵がない。これでは長期的な展望、長期的視点に立った経営など期待できない。

 

では、どうしたらよいか。

 

僕の私見に過ぎないが、仕組みも大事だが、もっと大事なのは環境変化を察知できる人材を育てることではないかと思う。仕組みを作って安心してないか。それには、環境変化に敏感であれと言い続け、環境変化を察知しアクションを起こした人を評価し、逆に環境変化の認知能力の低い人にそれなりの評価をすることだと思う。察知したのにアクションを起こさなかった人にはそれなりの報いが必要だと思うし、察知できなかった人にも責任と限界を感じてもらわなければならない。ただ、繰返しになるが、完璧な人はいない。

 

この環境変化というのは非常に広い範囲を持っていて、すべてについて得意という人は少ないと思う。例えば、市場環境の変化を察知する能力と、目の前の顧客の表情の変化を察知する能力は違うと思うが、どちらも環境変化と言い得る。どちらも、予測(或いは期待)と実際に起こったことのギャップが変化を察知するきっかけとなる点は同じだが、前者では実際がデータとして入手できる場合が多く、後者は感覚で識別しなければならない。データを読む能力と顧客の表情を読む能力は鍛え方も異なる。得手、不得手ということもあるだろう。

 

ただ、予測(或いは期待)が重要という点については共通だ。予測がない場合はギャップもないので、変化を察知するきっかけをつかめない。予測をしない人、予測が甘い人は、改善ができるなら改善してもらう必要がある。改善できないなら予測ができる分野を探してもらうか、それなりの評価に甘んじてもらった方が良い。

 

人材を作るといっても、すべての人がそうなれるとは限らない。しかし、その過程で組織にリスク管理を重視する雰囲気ができることが重要だ。

 

この予測の企業経営レベルでの重要な例は事業計画や予算だが、「あれば良い」というものではないことは、建前でなくご理解いただけるだろうか。そう、ギャップから変化を察知・理解するためには、やはり精度が求められるからだ。

もちろん、すべての予測に同じ高い精度が求められるわけでもないが、少なくとも経営に与える影響の大きい、即ち、リスクの高い分野で、かつ、激しい変化が予測される分野・項目については精度を上げなければ役に立たない。

 

精度を上げることの意味は、予測と結果が一致するという意味ではない。致命的なリスクへの備えができることと、ギャップが測れる(識別・理解できる)という意味だ。もちろん、期待通りの成果が得られるに越したことはないが、予測レンジに達しなくても、或いは予測レンジを超えても、何故そういう結果になったのかを企業が理解でき、適切な対応行動へ繋げられることが重要だ。だがその結果、結果(実績)がついてくる可能性が高まる。それが企業の成長と事業継続につながると思う。

 

リスクの高い、変化が予測される分野・項目の代表例は、新規事業だろう。だが、経験のない事業で顧客や競合先がどう行動するかを予測するのは困難だ。だから、精度の高い予算策定は無理、鉛筆なめなめで良いと、諦めている方はいないだろうか。事前にどこまで徹底した顧客と事業の研究ができるか。

或いは、採算性が悪化している事業について、社内で大事にならないように楽観的な数字を出しておけ、なんて臭いがする予算案を見たことのある方はいないだろうか。きっと、たくさんいるでしょう。

 

頭の中の予測や期待を数字・金額にするのは大変な作業だ。だが、そこにこそ、事業を成功させたり、改善させる着眼点が転がっている。その精度を高めることについてどれだけ拘りを持てるか、そして、その拘りが社会と企業の両方の利益になるという目的に合っていて、その目的へ向かおうという姿勢・意思が強ければ、目の付け所がシャープですと言い切る根拠が生まれる。

 

この予測や期待が“会計上の見積り”に繋がっていくことは、容易に想像していただけると思う。そこに保守主義や重要性はどう関わるのか。これは次回以降に続くが、改めて今回のポイントをまとめておきたい。

 

  • リスク管理の仕組みも重要だが、人材の育成や組織の雰囲気がもっと重要
  • リスク管理は特定の部署の仕事ではなく、事業を遂行している現場が主役
  • 予測や期待の精度は、ギャップから原因分析ができ、適切な対応行動へつなげられるかで測る
  • 予測や期待はリスク管理に不可欠で、その精度を上げることへの拘りこそが重要

 

既に記載したように、リスク管理は企業の行動に合理的な説明を提供する。社会で、或いは企業内で、個別のルールより高次の目的への貢献が優先され、かつ、遵守か説明かというルール運用の知恵が働いていれば、活動しやすくなるに違いない。但し、企業にとっては社会へ貢献し対価を得ることが最も重要な目的であり、その存続ではない。この点を誤ると企業犯罪や経営者不正、粉飾へ繋がる。また、遵守か説明かで説明を選択した場合、社会一般に通用する説明が必要であることの根拠でもある。

2012年9月 2日 (日曜日)

脱線2~ルール運用の知恵

2012/09/02

昔を懐古するのは年を取った証拠。だが、日本の家電メーカーなどの業績不振とか、リストラのニュースを見るたびに、学生時代に抱いていた“総合商社への憧れ”が思い出される。と言っても卒業するころには“商社、冬の時代”などといわれて、総合商社も先行きが心配されていた。(しかし、総合商社は投資と回収という事業の本筋に立ち返って事業を再構築し、しぶとく生き残っている。) 僕が憧れていたのは、海外で孤軍奮闘する商社マンの熱い魂のようなところで、その手の小説を読んで感動していた。それを思い出させるのは家電メーカーなどの業績不振の原因が、国際化の失敗やガラパゴス化などと評されるからだ。日本はなぜこんなに内向きの国になってしまったのだろうか。

 

「いやいや、あのころの商社マンはもっと自由だったよ。今みたいに管理や規則に縛られては、孤軍奮闘などしたくてもできない。」という反論も聞こえてきそうだ。前回(9/1)の記事でいうところの固いルールの運用面の弊害だ。その意見は僕も良く分かる。だがそれは、管理や規則の使い方、運用で改善できないだろうか。固い方にもルール運用の知恵がある。

 

社会の要求を満たすことで事業利益(正味キャッシュフロー)を獲得する。或いは社会に貢献して対価を得る。企業が目指すのはこれに尽きるのだが、管理や規則の運用面ではこの大目的が蔑にされることがある。或いはルール(それが細則であっても)の目的が意識されず、ルールを守ることが社会と会社のためになることだと単純化されてしまう。管理面ばかりでなく事業の現場でも目先のこと、社会の利益でなく短期的な自社の利益やもっと悪い場合は部門の利益ばかりが強調されていないだろうか。最悪の場合、組織内の特定人物の利益が強く意識されていたり。

 

法律や政令、省令などの制定・運用も同様だ。もちろん会計基準や監査も。そしてマスコミがニュースを取上げる切り口も。もっと社会的なルールの在り方や利用方法について掘下げて見直して、社会的なコンセンサスを得ていく必要があると思う。単純にルールに合っているかどうか、ルールがあるかないか、ということより、目的に対しルールをいかに役立たせるか(より大きな目的に向かっているか)という観点でルールが存在し、運用されることが、社会の知恵であるように思う。

 

僕はこのブログを始めた当初から、日英サッカー審判の違い(2011/7/4などいくつかの記事でそれを指摘してきたつもりだ。(ルールにそう書いてなくても)もっと上位の目的を目指す運用をしようと。サッカーでも会計でも、ルールが国際的に共通化されても、運用の知恵のあるなしで、成果に差が出てくるに違いないからだ。(興味のある方は、「(A02)原則主義」をご覧ください。)

 

「書いてないからダメ」とか「前例がないからダメ」というのは監査法人の中でも時々聞かれる論理だったし、社会にはびこっているように思うが、それを否定したい。「書いてないことの適否をしっかり判断できることこそ、最も尊ばれるべき能力だし、職責だ」と。それを積極的にやるんだと。もう少し書くと、目的とルールが対立するときに目的を優先したルールの運用ができているだろうか。「本来はそうだけど、ルールに書いてあるからできない」ということになっていると、それはまずいんじゃないか。

 

「会計士がそれを言うか!?」とお怒りの方もいらっしゃるかもしれない。特に同業の会計士から、そしてかつての僕の関与先の方々からもお叱りを受けそうだ。しかし、「遵守か、説明か」というルールの運用を行うことがIASBのデュー・プロセス・ハンドブックにも書いてある(最新版は確認していないが、少なくとも昨年の時点ではそうなっていた)。

 

こういう書き方だと、「書いてあるからそうするのか!」と増々お叱りを受けそうだ。しかし、そういうつもりはなく、僕だけの特殊な偏った意見、考え方ではないことを書きたかったのだ。

 

即ち、ルールに書いてある通りの運用をしない場合は、その方が本来の目的に合っているという説明責任を負う。もちろん、内輪の論理とか、時々揶揄されるような「担当会計士が了解すればよい」レベルの説明ではなく、開示を想定した一般に通用する説明だ。社内ルールの運用であっても、ベースは同じではないかと思う。他の社員に説明できるか。他の社員が、その方が会社と社会の共通利益に適うと思えるか(個人の利益ではない)。

 

ここまで読んでいただければ共感していただける方も多いのではないか。或いは、理想論だと思われた方もいるに違いない。だが、IFRSでも、目的に合わないときは逸脱しなければならないという「IFRSの逸脱規定」があり、同様の説明責任を負う(4/9の記事)。既に任意適用した会社は、会計・開示面でそのようなルール運用を迫られている。

 

企業は絶えず変化し続ける事業環境に適応していく。だから、企業経営者、管理者は、まさにルールに書いてないこと、前例のないこと、書いてあるけどそれでは最早目的に合わなくなったことを適切に取扱うことが、重要な職責(のはず)だ。政治家や官僚も。

 

そして経営者等がその職責を果たすために役立つのが「リスク管理」という内部統制の機能だ。「リスク管理」は、変化を察知し、影響を分析し、選択肢を提案する。そしてこれらが説明責任を果たす材料になる。この機能の良し悪しは極めて重要だと思うが、これが機能している姿を頼もしく実感した経験のある方はどれほどいるだろうか。もし、変化を無視して既存のルールや前例に強引に当てはめて「解決」としていては、リスク管理は不要だが、環境変化からは取り残される。

 

この続きは次回に繰越す。余談だが、実は僕はこのようなルール運用の知恵は、責任を下へ降ろす分権的な組織運営、管理組織の単純化に役立つのではないかと密かに思っている。そして当事者意識の醸成にも。もしかしたら冒頭の家電メーカー等の業績改善にも役立つのではないかと。そして日本社会全体にも。直感でしかないが。

2012年9月 1日 (土曜日)

脱線1~ルール運用の知恵、リスク管理、見積り、保守主義、重要性

2012/09/01

前回、オックスフォード・レポートを読み続けると書いたものの、だいぶ僕の熱は冷めてしまった。レポートに向かうのだが、「根拠があるのか?」という疑問に集中力を殺がれてしまう。そこでちょっと間を置くために、脱線させてもらいたい。たかが二十年ちょっとだが、会計や監査の専門家としての経験から、見積り(金融商品系のものではなく事業性のもの)や保守主義・重要性と企業経営の関係について感じていることを数回に分けて書きたいと思う。ただ、全然学問的ではないし、何か権威があるものが根拠にあるわけでもない。単に感じたことを書くだけだが、お時間のある方は気楽にお付き合い願いたい。今回は少々前振りをさせていただきたい。

 

実は、僕が最も関心を持っているのは会計処理の内容ではなく、「ルール運用の知恵」だ。たくさん細かいルールを知っている人が偉いと思われがちだが、それは偉いというより便利にしか過ぎない。当たり前だが、社会と企業のためになることをたくさん実行できる人が偉い。法律も、社内規則も、会計基準もそれをサポートするためにある。ところが、それらのルールの運用については、社会と企業のためになるよう運用されているとは限らない。そう感じることはないだろうか。

 

そう感じるときの多くは、ルールが細かすぎるときと、例外を認めない硬直的な運用がなされるときだ。だが、ルールを運用する側がそういうすべてのケースで行き過ぎているとは限らない。ルールを課されている側の無理解・未成熟というケースもある。この線引きが難しい。しかし、これを上手にこなすことこそが、「ルール運用の知恵」だ。頭の中で考えると、これは難しいことではない。ルールにはそれぞれ設定される目的があるから、その目的に照らして運用が行き過ぎかどうかを判断できればよい。但しそれは、少数の当事者とタコツボ専門家の判断ではなく、一般常識の中で行われる必要がある。例えば、法律の世界では、検察審査会や陪審員裁判にその役割を期待しているのだろう。

 

企業経営はどうだろうか。

 

企業は社会に貢献し、適切な対価を得る。企業は社会に有益な存在になることで投資額以上のキャッシュを社会から回収する。この過程で顧客や資金の出し手、規制官庁、その他と利害関係を持つ。利害関係を持つということは、そこには法律から暗黙のものに至るまでの様々な約束事ができる。まあ、ルールという固いものばかりでなく、例えば、企業イメージを企業が作って社会がそれを受入れると、企業はそのイメージに沿った行動をすることを社会から期待されるといったことも含めて。

 

企業が他社と差別化し、社会から価値を認められて存続をより確かなものにするという社会からプラスの評価を受けるときは、そういう約束事の柔らかい方の期待を満たすときが多いと思う。(法律などの固い方は遵守が義務なので、期待を外せばマイナス評価となる。) そのような柔らかい約束事ができる過程、それを維持・増進する過程で、企業と利害関係者の間にコミュニケーションが行われる。これもルール運用の知恵だ。

 

顧客とは、製品やサービスの内容やそれに対する評価が主にコミュニケーションの材料となるが、資金の出し手とは、資金の使途(計画)とか投資の進捗状況や成果が材料になる。その一部(だが、重要な部分)が財務諸表だ。

 

すると、企業と外部との関係は、約束事が細かいルール、硬直的なルールで規定されているのではなく、コミュニケーションという、より自由な相互関係という柔らかなものに依っており、この中から、利害関係者の数が多く内容的に共通する一般的な事項や、社会に対する影響の特に大きなものが法律等のルールになっているというイメージが湧く。財務諸表も、こういう事項の一つとして扱われ、様式や会計処理が決まっている。

 

このように財務諸表を見ると、(主に)資金の出し手への説明材料、資金の出し手へ約束したことを実行していることの疎明資料ということになる。だが、それは財務諸表を一面から見た姿にしか過ぎない。不思議なことに財務諸表や会計は、こちらの面から語られるばかりで、もう一つの大事な面が公の議論から見逃されている。それは、会計が経営者や管理者が企業実態を把握する道具という面だ。そんなことは当たり前、みんなが知っている暗黙の前提だよと言われそうだが、そういう扱いが重要な誤解を招いている。誤解しているのはお前だよ、と言われるかもしれないが、これは僕のブログということで、しばらく勝手に書かせていただくことをお許し願いたい。

 

  • 会計上の見積り(特に事業性のもの)
  • 保守主義
  • 重要性

 

企業活動は、基本的にはコミュニケーションという柔らかな約束事で利害関係者との関係をユニークに創造していくところに価値があるものだと思う。上記の項目はそういう範疇に含まれるもので、固いルールとは一定の距離があると僕は考えている。そして企業経営者は、リスク管理という外部から一律に律しにくい、企業独自の経営の仕組み・機能を通して、上記項目と関わることになる。

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