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2019年5月

2019年5月12日 (日曜日)

609【番外編】平成の歌はスガシカオ『Progress』〜減損会計の歌『Progress』

2019/5/12

前回の記事(608-5/7)を読まれた方は、減損会計の目的や導入の背景、概要を理解できたと思う(あくまで僕が理解しているいい加減な解釈だが)。そして、前々回の記事(607-5/5)も読まれた方は、減損会計と『Progress』がどう関わるのか、その接点もご存知だ。

 

今回は『Progress』と減損会計の具体的なつながりを説明する番だが、「そんなのこじつけでしょ」「もういいよ、十分だよ」と呆れられている方も少なくないだろう。でも本当に今回こそ熱く語りたいところだ。減損会計を前向きに捉え、正確に理解する核となる概念が、『Progress』で説明されている(と僕は思う)。

 

まず、新しいタブで下記のリンクを開いて、この記事を読みながら時々参照してほしい。リンク先のページの一番下には『Progress』の歌詞の1番と2番が横に並べて書いてある。理解するにはこの配置が良い。

 

NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』の紹介ページ

 

『Progress』のメロディーは、AaBbCのパターン。Aの部分が歌詞の3行目まで、その後Aの繰り返しaが6行目まで、Bとbまでがサビ、最後にCのメロディーで1番が終わる。2番も同様。さらに最後にサビのBbとCが繰り返される。

 

Aaの部分は、1番も2番も自己分析。1番は過去と現在の自分の共通短所の洗い出す現状分析、2番は大きな目標に向かって自ら問題解決しようとする夢、計画の分析。サビのBbの部分では1番は“ジブン”、2番は“ミライ”を定義。Cの部分は1番も2番も同じ・共通で“あと一歩だけ、前に進もう”とアクションを促す内容となっている。

 

さて、いよいよ減損会計との関わりだ。

 

僕は、1番のAaBbは、今の自分、即ち、実績の捉え方・現状認識の方法を示していると思う。そして、2番のAaBbは、自分の夢や目標、即ち、事業計画の立案・変更の方法を示していると思う。ここまでで、いわゆるPDCAサイクルの“PDC”まで。そして1番も2番もCの部分で、PDCAの“A”の部分、アクションを促している。この結果として、“あと一歩だけ、前に進もう”が、とても重要なメッセージとして響いてくる。

 

これは、まさに減損会計のプロセスではないか。そして減損会計に欠かせない要素である、謙虚な自己分析(虚栄なしの業績把握)と、目標・事業計画の具体的な指針を、次の一歩のために、目的思考的に表している。

 

抽象的すぎるので、以下、逐条解説で行こう。

 

Aのエピソード〜「横一列でスタートし、あいつがつまずく」

 

ちょっと横道にそれるが、ここがこの曲の唯一の弱点だ。この“横一列でスタート”エピソードには新卒一括採用のイメージがあり、今の流れでは令和時代に陳腐化する可能性がある。いずれ歌詞が理解されづらくなると思うと残念だ。しかし、“平成を代表する歌”という意味では、これでも良いのかもしれない。それに生まれた時を“横一列のスタート”と解釈することもできよう。それであれば、この歌の普遍性は失われない。いきなり横道で済みません。

 

さて本筋に戻そう。このエピソードは、競争相手の失敗を喜ぶことの愚かさを表していると思う。皆さんには経験がないだろうか。新人研修の時にはドジでみんなに笑われていたやつが、1年後のフォローアップ研修の時、或いは数年後一緒に仕事をした時には大きく成長していて驚いたことを。

 

新人の頃など若い時代の失敗は、多くの場合貴重な教訓をもたらしてくれる。むしろ、失敗が多い方が成長が早いといっても良いかもしれない。

 

企業にとって競争は宿命で、競争相手がつまずいて出遅れれば、その分自分に需要が転がり込んでくるからシメシメと思うのは当たり前だ。しかし、一歩間違えると愚かになる。そう、油断だ。そんなことをしていれば、相手はもっと強くなって立ち上がってくる。喜んでる暇があったら、もっと先へ進んでおかなければ。

 

aのエピソード〜「相変わらず ダメなぼく

 

一列にスタートした時、“ぼく”は、愚かだった。エピソードAではそう言っているが、さらにエピソードaの最後に、“相変わらず あの日のダメな ぼく”と言っている。残念ながら、スタート時の愚かさは今も変わらないというのが、この歌の自己分析・現状分析の結論だ。

 

その根拠として、“誰かを許せたり”、“大切な人を守れたり”が、“サマになっていやしない”を挙げている。しかし、エピソードAの愚かさとはだいぶ次元が違うように感じるのは僕だけだろうか。

 

他人の失敗を期待するのは単に卑しい性根で、自分は何の努力もしていない。だが、他人を許せなかったり大切な人を守れなかったのは、精一杯戦っていて余裕のないときに犯しがちなミスだ。ミスは大いに反省すれば良いが、性根が腐っていればその反省も起こらない。

 

aの最後に“相変わらず あの日のダメな ぼく”とあるが、欠点の質はだいぶ改善していると僕は思う。着実に“あの日”より進歩しているのだ。ただ、彼はもっと進歩したいので問題点を挙げて改善しようとしている。謙虚に自己分析しているわけだ。

 

この姿勢は減損会計で事業の実績を捉える際に重要だ。甘く実績を計算・集計すれば問題点は隠れてしまうから改善もされない。謙虚に厳しい自己統制が必要なのだ。それが次のサビBbで念押しされる。

 

Bbの“ジブン”の定義〜「ぼくが歩いてきた 日々と道のりが“ジブン”

 

この詩は重い。ズシンと心に響く。前半のBが頭の中で想像している“理想の自分”で、それを漫画にすれば吹き出しの中に浮いて描かれる自分、それは宙に浮く軽さがある。だから余計に後半のbが重く感じられる。

 

bは実際の行いの積み重ねであり、そこには良いものだけでなく悪いものも含まれているだろう。それを“ほんとうのジブン”と言っている。誤魔化しようがないのである。“歩いてきた日々と道のり”は、単なる事実の積重ねだから、そこに嘘は入りようがない。勝手に変えられない。

 

この“ジブン”こそは、減損会計でいう実績だ。理想とは違っていても、事実ならそれを実績として受け入れる必要がある。現実は厳しいのだ。減損損失が発生していれば計上する必要がある。だからこそ、次のCが活きてくる。

 

Cのアクション〜「あと一歩だけ、前に 進もう」

 

Cの前半は、世の中がため息と挫折だらけの厳しいところであるように書いている。まあ、実際には楽しいことも一杯あるのだが、この歌は違う。なぜなら、この歌は最も厳しい極限状況で“プロ”と呼ばれる人がどうするかをテーマにしてるからだ。どんなに辛く苦しくても前進せよ、というのがこの部分のメッセージだ。

 

減損損失の発生を認めるのは辛いことだろう。しかし、その企業が歩いてきた日々と道のり、即ち、その実績が投資意思決定や事業運営の実態を示しているのだから、受け入れるしかない。

 

ミスを受け入れず曇ったメガネで事業を見ていれば、適切な改善策は見つけられない。だが、あるがままの実績を認識できる厳しさと謙虚さがあれば、その改善策を見つけるのは比較的容易い。時間を無駄にするな、現実を受け入れ、逆転・追撃の一歩を歩み出せ、まず一歩から。

 

以上が1番だ。大分ぶっ飛んだ解釈かもしれないが、この実績(=“ジブン”)に対する真摯な姿勢と成功を追い求めて最悪な時でも諦めずに前進するプロフェッションの姿が、減損会計と妙に重なってくるのを感じてもらえただろうか。

 

2番は実績のところが計画(=“ミライ”)に変わるが、基本的には1番と同じだ。もう飽きた方が多いと思うので、2番はなるべく簡単に記載したい。

 

Aaは事業計画の説明〜“世の中の悲劇・問題点を解決して夢に手を伸ばす”

 

Aは、非常に大きな夢に向かって事業をしている様子が描かれているように思う。特に“届かないその手を伸ばす”なんて表現に感じられる。

 

一方、aは世の問題点を描いていると思う。“ガラスケースに飾られた悲しみ”を傍観するのは“キライ!”で、自分で、この事業計画によって解決しようとしているのだと思う。素晴らしい事業だろうことが想像される。

 

Bbは事業計画の要件〜「誰も知らない世界へ向かっていく勇気」

 

Bでは、「事業計画はオリジナルなもので、誰かの真似っこじゃない」と言っているようだ。故に、bでは新しいものを生み出せ、技術革新へ向かえ、チャレンジせよ、といっているように思える。

 

Cは1番と同じだが…

 

ここまで2番を読んできて、この事業が相当凄そうに響いてくる。だからこそだろう、Cは1番と全く同じ歌詞だが、そこに出てくるため息と挫折は、事業計画の目標が凄すぎて容易に達成できないために生じているように感じる。1番は実績(=“ジブン”)に対する真摯な姿勢によるため息と挫折だったが。

 

目標が高くて実績が追いつかない場合、目標を下げるのが常識と思うが、この2番を何度読んでもそういう気がして来ない。ただ、高い目標を維持しつつも、そこへ至る具体的な道筋について色々思考しているのではないかという気はする。

 

そう思わせるのは、Bbのイノベーションを求める歌詞と、Cの最後の“あと一歩だけ”という部分があるためだ。Cでは、“あと一歩だけ”と言っているのであって、“目標まで届かせろ”とは言ってない。Bbは、目標に至る道は色々あるよ、自分のやり方・色を出せ、とチャレンジする勇気を求めている。

 

目標を変えずに、目標に至る道筋、事業計画のみを変更することは可能だ。ただ、将来キャッシュフローの見積もりが変わってくるから、減損損失が発生する可能性が高まる。それを恐れていては目標に近づけない、達成はできない。あと一歩だけ進もう、まず一歩踏み出せばまたその先が見えてくるに違いない。

 

最後

 

この2番の後に、1番と2番のサビの部分(=1番と2番のBb)とCが繰り返される。実績を真摯に受け止め、事業計画を見直せ(必要なら減損損失を計上せよ)、そして一歩踏み出せ、ということじゃないだろうか。

 

まあ、無理矢理減損会計にこじ付けてる感じがするかもしれない。でも、“プロフェッショナル”がこの曲のテーマで、その自分に厳しく夢を追う感じが、減損会計の僕のイメージに合っているのだ。多くの人は賛成しないだろうが…。

 

 

2019年5月 7日 (火曜日)

608【番外編】平成の歌はスガシカオ『Progress』〜平成を象徴する会計基準は減損会計

2019/5/7

すでにみなさんは、あちこちで耳にタコができるぐらい“平成”時代の位置付けを聞いているだろう。冷戦とバブルが終わり、昭和の清算を強いられた停滞の時代。大災害に見舞われた時代。国際化の時代。日本のスポーツが世界に躍進した時代。日本が戦争しなかった時代。

 

企業会計の世界では、2000年(平成12年)ごろに“会計ビックバン”なるものが起こった。日本の会計基準が一気に世界に追いついた時期だ。代表的なのは、減損会計、金融商品会計、退職給付会計だ。それを税効果会計がサポートした。

 

一部の方には意外かもしれないが、伝統的な“取得原価主義”はバブルを煽った。資産価額が支出額でB/Sに計上される取得原価主義は、取得額が割高でも是正されないため、いわゆる含み損の蓄積を誘発し、企業の財政状態を蝕んだ。それに気がつかない、或いは、気がつかないふりをした金融機関は融資額を膨らませた。これがバブルだ。もちろん、当時も著しい価値の下落について評価損を計上する実務はあったが、今に比べれば非常に限定されていた。

 

例えば、バブル崩壊後も「地価は下がらない」という神話がなかなか消えず、「土地の評価損計上などありえない」という人もいた。さすがに90年代後半(平成7年とか)になると、土地価格の下落が無視できなくなり、評価損を計上する企業も現れた。でも、“著しい下落”と“相場のある”という条件が、評価損計上対象を狭め、かつ、処理を遅らせていた。

 

取得原価主義はP/L中心主義でもあった。「事業利益が計算できれば良い、B/Sは気にしない」という考え方だ。財務諸表の作り手も読み手も、資産や負債の価値に対する関心が著しく低かった。ところが、バブルはB/Sに潜んでいた。上記の3つの会計基準はこれを是正するもので、バブルの反省でもある。もちろん、国際的な会計基準動向が大きいのだが。

 

金融商品会計基準は、相場のある、或いは、時価が計算可能な金融商品に対し時価を付すことを要求した。それ以外の時価のない資産・負債の価値については、減損会計が評価損を要求した。退職給付会計は、従来の“発生した(退職)コストをB/Sへ積立てる”のではなく、B/Sに計上すべき退職給付債務の価値変動から逆算した費用をP/Lへ反映させるという発想の転換を要求した。これらは全てB/S項目の価値変動を起点にしてP/L計上額を計算するという、従来のP/L中心主義と逆の発想を要求した。

 

企業はこれらの会計手法を導入するにあたり、痛みを伴うことが多かった。それまで監査人を応援団、若しくは、無害な人と思ってた経営者もいたかもしれない。でも、この3つの会計基準の導入は、監査人に対する見方を“サディスト”に変えていった。その責めの厳しさは、会計基準ごとに異なる。

 

金融商品会計には、評価益を計上できる可能性があったし、B/S項目に時価を付すことは比較的納得を得やすいので、財務諸表作成に手間がかかるものの、導入は割合スムーズだった(金融庁の検査対象となる自己査定のある金融機関を除く)。

 

それに比べると退職給付会計は、退職給付債務の価値を計算するにあたり、様々な前提・仮定をおいて自前ではできないような複雑な計算を行うし、一時的ではあっても多額の費用計上を伴ったので抵抗は大きかった。しかし、従来の退職給与引当金が全く経済実態を表しておらず、多額の費用計上が退職制度のあり方に起因したものであったことが多かったから、退職金制度見直しへもつながって、抵抗が吸収されていった。労働組合が弱いのも手伝った。

 

これらに比べ減損会計は企業経営者に大きなショックを与えた。即ち、「監査人=サディスト」のイメージを広げる働きが強かった。

 

すでに、この時期までに多くの会社がバブルの清算を済ませていた。清算の痛みは会社によって異なるが、会社によっては、せっかく蓋をして隠したバブル時代の臭いものを、蓋をこじ開けて腐臭を解き放ち、玄関前に並べさせられたというひどい体験をした直後の時期だった。しかし、それがバブルの清算であればやむをえなかった。むしろ、きっかけさえあれば早く処理したいという本音もあった。腐ったものは、隠しただけではなくならない。なくなるどころか、放置して腐敗が進めば会社の存続を危うくすることもある。実際に多くの企業が破綻していた。減損会計を導入した時期は、ようやく清算を終えて、ホッとしていたタイミングかもしれない。

 

バブル後に、新しい事業を始めるなど多角化したり海外進出する企業は意外に多かった。環境が変わって従来の事業だけでは成長できないのだから、企業としては生き残りをかけた当然の戦略だ。しかし、物が売れないデフレ時代に事業リスクは高まっていた。成功は厳しくなった。昔のイケイケどんどんの感覚が消え切らず、市場調査も製品研究も不十分な状態で進出した事業であればなおさらだ。

 

当時、単年度のP/L予算を策定している企業は多かったが、複数事業年度に渡るB/S・キャッシュフローを考慮した事業計画を策定している企業は少なかった。「日本企業は長期的経営」などと自画自賛の自画像を描いていたが、実際には、長期的経営は経営者(しかも、一部の!)の頭の中にしかなかった。それを実行するのに必要な経営管理ツール、将来像を社内で共有する具体的な経営管理ツールを、かなりの企業が持っていなかったのだ。

 

そこに減損会計が入るとどうなるだろう。せっかくの生き残り戦略が否定されかねない…

 

当時の経営者にすれば、バブルは先輩経営者の責任だからまだ言い訳ができるが、減損会計導入時の損失は、自らの経営責任が問われることになる。

 

・2期連続赤字で翌期も黒字が見込めない事業(キャッシュフロー生成単位)は減損対象。

 

・事業から見込まれる正味のキャッシュ・イン・フローが、事業資産評価額の上限。


・事業計画の策定や事業評価という経営の専権事項を、お節介にも、会計基準に要求される。

 

・割引価値の考慮までを求められる。

 

会計基準からこんなに鞭をいっぱい受けて、実行しても、監査人からさらに甘さを追求される。やむなく減損損失を計上した事業は、経営失敗の烙印を押されたも同然だったから、減損会計にナイーブになる経営者が現れても当然だ。

 

監査人が会計基準を作ったわけではないので、会計基準の中身について監査人が非難されるのは筋違いだが、一部の経営者は他に怒りの持って行きどころがなかった。それに監査人に凄みをきかせれば監査が甘くなるという期待もあったのだろう。この後、監査人交代の噂話・裏話で、減損に関する経営者と監査人の意見の相違というのがよく聞かれるようになるので、この基準の放つ鞭は監査人にも厳しかった*1

 

僕が監査報告書にサインするようになったのはちょうどこの頃だ。減損会計などを導入・定着させるちょうどその時期に、僕は監査の現場責任者やパートナーとして会社と密接にコミュニケーションする立場だった。おかげで緊張の瞬間を何度も経験した。

 

不思議とやり甲斐こそ感じたものの、不幸を嘆いたことはなかった(と思う*2)。この基準こそバブルの反省という思いが強かったからだ。あの悲惨なバブル清算を2度と繰り返さないために、含み損の可能性を徹底的に摘み取ろうと思っていた。

 

そもそも、事業に失敗はつきもので、悪いのは失敗を放置することだ。それが積み重なると企業の生き残りを危うくする。これは経営の怠慢だ。減損会計は、このような状況に対して次のような警告メッセージを発する。

 

減損が出ないように早め早めに問題解決の手を打とう、それでも減損が出るならもっと大きな方向転換をしよう、企業の存続自体を危うくする前に。そのためには長期・短期の目標と現実の差異、或いは、進捗状況をタイムリーに正しく認識しよう。PDCAサイクルを回せ!

 

どうだろう、前向きではないだろうか。そう、実は、前向きな会計基準だ。

 

今回は、『Progess』に触れずにきたが、ここから『Progess』の歌詞*3が関わってくる。しかし、長くなってしまったので続きは次回に繰り越したい。

 

🍁ー・ー🍁ー・ー🍁ー・ー🍁ー・ー🍁ー・ー🍁ー・ー🍁ー・ー🍁ー・ー

 

*1 この他、減損会計の厳しさのために、日本企業の経営が消極的になったという批判もあるかもしれない。

 

リーマン・ショック前の数年、そしてまたアベノミクスが始まってから、日本企業の経営者の能力に疑問符が投げかけられることが多くなった。日本経済が停滞しているのは経営者が投資を怖がって、B/Sに現金を滞留させているからだ、即ち、投資や従業員・仕入先に対する適正な報酬支払に対する経営者の消極的な態度が、日本経済の活力を奪っている、デフレの一因、という批判だ。

 

「もしかしたら減損会計の影響だろうか?」との考えが頭をよぎることがある。減損会計は経営者経由で日本経済にも鞭を入れてるのか!? 

 

ただ、減損会計は世界の主要国が似かよった内容(米国と日本はほぼ同じ、その他もIFRSで共通)で導入している。日本だけ厳しい基準、ということはない。それでも減損会計が日本の経営者を萎縮させたというなら、やはり日本の経営者に問題があるのだろう。と、僕は自分で納得している。

 

*2 カッコつけたつもりはないが… 例えば、愚痴を言って酔い潰れたようなことは覚えていない。都合の良い様にしか覚えていないという生来の性格によるのかもしれない。いや、他の件でなら頭にきて相手に説明資料を投げつけたくなったことを覚えているから、やはり、減損会計に関することではなかったと思う。ちなみに、書類を投げつけたくなった相手は経営者ではない。中の人だ。

 

*3 『Progess』にご興味のある方は、次のページをどうぞ。一番下に歌詞がある。

 

NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』の紹介ページ

 

 

2019年5月 5日 (日曜日)

607【番外編】平成の歌はスガシカオ『Progress』

2019/5/5

時代の区切り、改元。人生2度目の体験だが、1度目とは随分様子が違う。まず、崩御のない“譲位”なので社会が明るい。日本が、飛ぶ鳥を落とす勢いのJAPAN
as No.1ではなく、少子高齢化のトップ・ランナーになったことも。当時の日本は(覇権国米国の)脅威だったが、今は伝統ある独特な文化と自然で親しまれ、観光客が押し寄せる世界に人気の国だ。

 

30年が経ち、僕が歳をとったことも大きい。当時は社会に出たて、というか会社を辞めて、会計士試験の受験生だった。その後、監査法人での様々な経験を経て、今は周りが違って見える。

 

あちこちで平成の振り返りと令和の見通し・期待が語られているが、僕は会計士として「平成は減損会計の時代だった」と言いたい。そして僕にとっては、「減損会計のテーマソングは『Progress(byスガシカオ)』」なのだ。即ち、僕にとって平成の歌は『Progress』なのだ。

 

スガシカオさんはこんなことを言われても、嬉しくないどころか迷惑に違いない。なんせ、減損会計といえば多くの経営者から忌み嫌われるサディスティックな会計基準だ。サディスティックというのは減損会計を勧めるサディスト(会計士・監査人)の立場からの表現で、それを強制される経営者から見れば、「相当なMじゃなきゃ拒否したい」代物だ。そして僕の経験では、多くの経営者はMよりSである。

 

この歌は皆さんもご存知の通り、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』のテーマソングだ。詞は渋い*1。理想と現実、夢と挫折、でも諦めない人の生き様への賛歌。これがこの曲に対する僕の理解だ。

 

この曲がなぜ減損会計のテーマ曲なのか、そしてそれが平成を代表するのか。ここが重要だが、次回に繰り越したい。そんなに間隔を空けない予定だ。

 

しかし、勘の良いみなさんなら、もうお分かりと思う。“理想と現実”を“事業計画と実績”に置き換えれば良いのだから。そして“挫折”とは何か、“それでも諦めない”とはどういうことか。減損会計は確かにSMプレイだが、そこに喜びがなければ成立しない。

 

🍁ー・ー🍁ー・ー🍁ー・ー🍁ー・ー🍁ー・ー🍁ー・ー🍁ー・ー🍁ー・ー

*1 歌詞はネットのあちこちにあるので曲名で検索すればすぐ見つかる。参考に、そのうちの一つを紹介する。

 

NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』の紹介ページ

 

 

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